あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂

あしびきの やまどりのおの しだりおの ながながしよを ひとりかもねん(かきのもとのひとまろ)

意味

山鳥の長く垂れ下がった尾のようにながーーい夜を独り寝するのかなぁ。

語句

■あしびきの 「山」を導く枕詞。奈良時代は「あしひきの」、平安以降は「あしびきの」と濁音で読んだ。 ■山鳥 キジ科の鳥で雄の尾は長く雌が短く、昼間は雄雌いっしょにいるが夜になると遠く離れて過ごすという言い伝えがあることから一人寝のわびしさが連想される。 ■しだり尾」は垂れ下がった尾。「しだる」は「下に垂れる」という動詞。「しだれ桜」に同じ。 ■かも 「か」は疑問。「も」は詠嘆。

出典

拾遺集・巻13・恋3(778)「題知らず 人麿」。実際に人麻呂の歌ということではなく、「こんなに見事な歌だから人麻呂の歌といっても不自然ではない」ということで、いつのまにか人麻呂作になったと思われます。

決まり字

あし

解説

「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」までが「ながながし」を導く序詞です。序詞とはある言葉を導くための言葉ですが、枕言葉が多くは五音と短く、一つの言葉に対応しているのに対し、序詞は歌ごと、歌人ごとに臨機応変に作られます。また枕言葉と違い7音以上の長いものが多いです。文法用語の「助詞」と区別するため「じょことば」と言われることがあります。

山鳥の長い尾という視覚的なイメージが、いつのまにか一人寝の夜の、つまり時間の長さにうつりかわっていきます。しかも、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」と「の」の繰り返しによって自然なリズムとともにイメージがうつっていくのがポイントです。

作者 柿本人麻呂

柿本人麻呂(人麿、人丸とも)。『万葉集』の代表歌人で三十六歌仙の一人に数えられ、4番山辺赤人と並び「歌聖(うたのひじり)」と称されます。

紀貫之による古今集仮名序に「人麿は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」とあります。また「万葉集」にある大伴家持の漢文から山部赤人と柿本人麻呂を「山柿(さんし)」と称します。

しかし『日本書紀』などの史書に人麻呂の名は見えず生没年も不明です。

天武天皇の時代に活動を開始し、つづく持統・文武両天皇の時代(686-707)に宮廷詩人として活躍したようです。『万葉集』に柿本人麻呂作とされる歌は約420と膨大な数に及びます。最も多い大伴家持(473首)に迫る勢いです。

人麻呂の地位は低かったと考えられています。『万葉集』には人麻呂の死を「死」という漢字であらわしていますが、当時人の死をあらわすのに三位以上は「薨」五位四位は「卒」五位以下は「死」の字を使いました。ここから人麻呂の地位が低かったとが考えられています。

文武天皇がまだ軽皇子といった皇太子時代に阿騎(あき)の野の狩りに付き添った時に詠んだ「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」は特に有名です。

持統天皇の吉野行幸にもしばしばつきそい多くの歌をつくっています。宮廷詩人らしく皇室にからんだ歌(特に挽歌)が多いです。

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む
(いつまで見ていても飽きない吉野川の滑らかな川床のように、何度でも繰り返し吉野を見に来よう)

壬申の乱で荒れ果てた大津の都を詠んだ「近江荒都歌」はよく知られています。

楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
(さざ波寄せる志賀の唐崎は戦乱の影響を受けず昔のままの姿だが、 ここで遊んだ都人の舟はもう来はしない)

その死も謎に包まれています。『万葉集』には人麻呂が石見(島根県)の「鴨山」で臨終を迎えた時に自ら悲しんだ歌が残されています。

鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
(鴨山の岩を枕として敷いて、私は死んでいく。妻は私の死ら知らずに待ちわびることになるだろう)

しかし、「鴨山」がどこかハッキリせず、歌の解釈にも諸説ありよくわかりません。

明石には柿本人麻呂をまつった柿本神社があります。「人麻呂」は「火止まる」に通じることから火災防止の神様として、また「人生まる」に通じることから安産の神様としても崇められています。

百人一首は1番2番に天智天皇持統天皇親子の歌を配し、つづく3番4番に万葉集の代表詩人柿本人麻呂と山部赤人を持ってきます。豪華な顔ぶれです。

李白 漢詩の朗読
↑こちらで李白の作品を多く朗読しています。