百敷や古き軒端のしのぶにも なほ余りある昔なりけり 順徳院

ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なおあまりある むかしなりけり (じゅんとくいん)

意味

宮中の古い建物の軒端には忍ぶ草が茂っている。それを見るにつけても、いくら偲んでも偲びきれず、懐かしく思い出されるのだ。まだ王権が盛んであった古き良き時代のことが。

語句

■ももしき 「ももしきの」という「大宮」を導く枕詞から転じて内裏、宮中のこと。■しのぶ 「忍ぶ草」という植物の名前と、「昔を偲ぶ」の「偲ぶ」という動詞を掛ける。■昔 王朝の権威が盛んだった延喜・天暦の時代を差すというのが通説だが特に百人一首においては天智天皇の時代を指しているとも考えられる。

出典

続後撰集(巻18・雑下・1205)。

決まり字

もも

解説

歌が詠まれたのは承久の乱の5年前。順徳院20歳の時です。この頃鎌倉幕府の力が強まり、朝廷は権威を失っていました。5年後の1221年順徳院は父後鳥羽院とともに幕府に対して承久の乱を起こします。しかし戦のプロ集団である幕府方の前に敵ではなく、わずか1カ月あまりで敗れています。

後鳥羽院は隠岐に、順徳天皇は佐渡に島流しにされました。そういう背景を考えると、なおさら胸に迫る歌です。

作者 順徳院

順徳院(1197~1242)。99番後鳥羽院の第三皇子として誕生。諱名を守成親王(もりなりしんのう)とおっしゃいました。

順徳天皇
【順徳天皇】

守成親王が生まれてすぐに異母兄の土御門天皇(後鳥羽上皇の第一皇子)が4歳で即位します。兄土御門天皇は『増鏡』の記述によれば、「いとなまめかしく、美しげにぞおはします。御本性も父御門より、少しぬるく」、つまり上品で殊勝であり父後鳥羽院よりもおとなしく、おっとりしていたといいます。

対して弟順徳院は激しくハッキリした気性でした。父後鳥羽院はことに守成親王に目をかけられます。日に日に幕府と朝廷の対立が深まってくる中、温和な土御門天皇ではやっていけないと見たのもしれません。

承元4年(1210年)16歳の土御門天皇は理由も告げられず譲位させられ、かわって14歳の守成親王が即位して順徳天皇となります。退位させられた土御門天皇は、おだやかな性格だけあって面だって不満を口にすることは無いが表情には不満を隠しきれなかったと『増鏡』は語っています。

退位後、兄土御門院は「新院」と称されます。父後鳥羽院は「本院」と称し引き続き治天の君(天皇家の家長)として権力の座に君臨し続けます。順徳天皇は強引な父後鳥羽院の下であまり活躍できなかったようで、政治的な業績は特に残っていません。

順徳天皇の情熱は、そのぶん歌の方面に向かったようです。順徳天皇は父後鳥羽院と同じく歌に堪能で、歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』を残しています。

1219年将軍源実朝が暗殺され源氏三代の血筋が途絶えると、後鳥羽上皇はこれぞ朝廷の権威を取り戻す好機と見て、討幕の兵を起こします。1221年承久の乱です。

新院(土御門院)は無謀な戦と見て父後鳥羽院に協力はしませんでした。一方、順徳院はわりと乗り気で父後鳥羽院の計画に加わったようです。挙兵の1ケ月前には4歳になったばかりの懐成(かねなり)親王に譲位します。第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇です。

順徳院は上皇という自由な立場を得て父後鳥羽院の補佐をしようと考えたわけです。しかし相手は戦のプロ集団である武士。戦は一か月あまりで朝廷側の敗北に終わります。

後鳥羽院は隠岐島へ、順徳院は佐渡島へ流されます。土御門院は気の毒なことに何の罪も無いのに自ら願い出て土佐へ配流となりました。後に鎌倉からの勧めで阿波へうつされています。

さらに気の毒だったのは4歳の仲恭天皇でした。即位してわずか70日ほどで退位させられ、かわって高倉天皇の第二皇子守貞親王の皇子が後堀河天皇として即位します。退位した仲恭上皇は都で17歳まで生き、失意のうちに崩御します。

佐渡に流された順徳院は21年を島ですごします。寛喜3年(1231年)には阿波で兄土御門院が崩御し、その数年後は隠岐で父後鳥羽院が崩御し、順徳院は一人残されます。二度と都に戻ることも許されず、仁治3年(1242年)46歳で崩御しました。