わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船 参議篁

わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね (さんぎたかむら)

決まり字

わたのはら や

意味

「あの人は大海原に広がる島々をめざして漕ぎ出していったよ」都にいる愛しい人にこう告げてくれ。漁師の釣舟よ。

語句

■参議 大納言・中納言と並び朝廷の最高権力機関・太政官における官職。唐名(中国風の呼び方)を「宰相」「相公」と言い、小野篁は小野氏の参議なので「野相公(やしょうこう)」と呼ばれていた。 ■わたの原 大海原。「わた」は海。 ■八十島 「八十」は「とても数が多い」こと。 ■かけて 「目指して」。 ■人には 「人」は作者が都に残してきた大切な人(恋人?)。 ■には 特に強調して「あの人にだけは」の意味が入る。 ■海人の釣舟 漁師の乗る舟。漁師ではなくあえて「釣舟」に語りかけている所にこの歌の味がある。

出典

古今集(巻9 羈旅 407)。詞書「隠岐の島に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける 小野篁朝臣」。

作者 参議篁

参議篁(小野篁)。遣隋使で有名な小野妹子の子孫です。父は勅撰漢詩集「凌雲集」の選者小野岑守(おののみねもり)。孫に書家の小野道風(おののみちかぜ、とうふう)がいます。最高官位が参議であったため野相公(やしょうこう)野宰相(やさいしょう)と呼ばれました。

子供の頃は乗馬ばかりしていて学問に興味が無かったので嵯峨天皇が「父に似ない子だ」と嘆いたといいます。篁はこれを聞いて奮起、以後学問に精を出し文章生、東宮学士と出世していき、834年(承和元年)遣唐副使に任じられます。

しかし破損した船に乗せられそうになったことに腹を立て、大使藤原常嗣(ふじわらのつねづく)と対立。病気といつわって乗船を拒否します。

「やってられない。今更危険を犯して中国にわたったって
学ぶことなんかあるか。もう阿倍仲麻呂の時代とは違うんだぞ…」

それくらいのことはつぶやいたかもしれません。ヘソを曲げた小野篁はさらに遣唐使を批判した「西道謡(さいどうよう)」という長編の詩を作り発表します。

「うむむ…篁、いい加減にせいよ」

こうして篁は嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐の島へ配流となります。

当時、都から隠岐の島へ出るには舟で淀川を下って難波から大阪湾へ出て瀬戸内海を通って関門海峡から日本海側に出ました。はるかな船旅です。

隠岐島へ
【隠岐島へ】

ちなみにこれより約400年後、承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽院が、同じ船路をたどって隠岐の島へ流されています。

この歌は難波で、いよいよ大海に乗り出す際に都に残してきた大切な人(恋人?)のことを思って詠んだ歌です。

これから島流しになろうというのに、しみったれた感じはなく、むしろ雄大な詠みっぷりです。自分を励ますためにそのように詠んでいるのかもしれませんが…。

篁はその文才を惜しまれ、2年後には島流しを許されて中央政界に復帰。参議にまで登りました。

『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄(じっきんしょう)』『江談抄(ごうだんしょう)』などの説話集に小野篁の博識をしめす逸話が採られています。

●嵯峨天皇が『白紙文集』の一か所だけを書き換えて小野篁に渡したところ、正確に書き直されて戻ってきた 。
●「子」の字を十二文字並べたものを「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と詠んだ。

和歌にも優れ『古今集』には六首が採られています。家集に『小野篁集』がありますが、これは『篁物語』とも言われ、物語風の語り口に特徴があります。

小野篁をまつった六道珍皇寺
小野篁をまつった六道珍皇寺

小野篁をまつった六道珍皇寺
小野篁をまつった六道珍皇寺

小野篁をまつった六道珍皇寺
小野篁をまつった六道珍皇寺

小野篁をまつった六道珍皇寺
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小野篁をまつった六道珍皇寺
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