筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる 陽成院

つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふちとなりぬる(ようぜいいん)

意味

筑波山の峰から滴り落ちる流れがついには男女川の淵となる…そんなふうに私の恋心は積もりに積もって、こんなにも深い思いとなったのです。

嵯峨野の歌碑
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語句

■筑波嶺 常陸の筑波山。山頂は西の男体山、東の女体山に分かれ、それぞれ伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)を祀る。ふたつの嶺からの流れが男女川となり、桜川となり、霞ヶ浦にそそぐ。男女川は男体山と女体山からの流れがいっしょになった川で、男女の仲が親密なことの象徴。 ■淵は水が深くよどんだ所。対して浅い水たまりを「瀬」という。 ■なりぬる 「ぬる」は詠嘆を含んだ断定。「後撰集」「百人秀歌」をはじめ「ける」とする写本が多いが「ぬる」のほうが感情が深い。

出典

後撰集(巻11・恋3・776)。詞書「釣殿の御子につかはしける」。

決まり字

つく

解説

詞書に見えるように「釣殿のみこ(皇女)」すなわち光孝天皇の第三皇女綏子内親王(すいしないしんのう)に送った歌です。のちに綏子内親王は陽成院の妃となるも、若くして亡くなっています。

筑波山
【筑波山】

作者 陽成院

陽成院(868-949)第57代天皇(在位874-884)。清和天皇の第一皇子。母は藤原基経の妹で入内前に17番在原業平と恋愛関係にあったと『伊勢物語』に書かれている藤原高子(ふじわらのたかいこ)(ただし『伊勢物語』の設定は事実ではないと思われる)。

20番元良親王の父。諱は貞明。生後3か月で皇太子となります。9歳で清和天皇の譲位を受けて即位。藤原基経が先代に引き続き摂政を務めました。

一説によると脳に異常があり、奇行が多かったと言います。883年天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の子源益(みなもとのみつ)を殿上で殺害したり、馬を愛好し宮中で飼わせた記録が残ります。

こんなことがあって関白藤原基経と陽成天皇の対立は日に日に深まっていきました。「もはや位を降りてもらうほか無い」ついに884年在位8年にして祖父の弟にあたる55歳の光孝天皇に譲位させました。

天皇家系図
天皇家系図

この時次の天皇を決めるにあたって、臣籍に降っていた源融が「私が天皇になろう」と名乗り出ます。しかし藤原基経は「一度臣籍に降った者が即位した先例は無い」と融を退けたといいます。

退位後、陽成院と称せられ60年以上を上皇として過ごしましたが、なお乱行が収まらず院に仕える人々にも乱行が目立ったといい「悪君之極」「乱国之主」などと評されています。

949年崩御。陵は京都市左京区浄土寺真如町にあります。

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