このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに 菅家

このたびは ぬさもとりあえず たむけやま もみじのにしき かみのまにまに (かんけ)

意味

このたびの旅は急なことでしたので、お供えする幣も用意できませんでした。せめて手向山の道祖神よ、この手向山の紅葉を、御心のままに、お収めください。

語句

■このたび 「たび」に「今回」という意味の「たび」と、トラベルの「旅」を掛ける。 ■幣 ぬさ。五色の紙や布を細かく切ったもので、神前にまいて旅の安全を祈る。 ■取りあへず きちんとした対処ができないこと。急な旅で前もって幣の準備をしてこなかった。 ■手向山 所在地不明。この時の宇多上皇の御幸の行き先「宮滝」から推測して、山城(京都)と大和(奈良)の途中にあったと考えられる。また「神に捧げものをする」という意味の「手向ける」を掛ける。 ■紅葉の錦 紅葉を美しい錦織の布にたとえた。 ■神のまにまに 神の御心のままにお受けください。

出典

古今集(巻9・羈旅420)。「朱雀院の、奈良におはしける時に手向山にてよめる 菅原朝臣」。朱雀院は宇多上皇。

決まり字

この

解説

宇多上皇が奈良に御幸された時にお供をした、菅原道真が詠んだとされる歌です。状況から昌泰3年(898年)10月23日の宮滝御幸の時の歌と思われます。吉野の宮滝から竜田川を越えて、河内に入り住吉神宮に参拝して京都へ戻ってくるという大規模な御幸でした。

宇多上皇の宮滝御幸
【宇多上皇の宮滝御幸】

時に道真54歳。右大臣に就任する前年のことでした。

作者 菅原道真

菅原道真(承和13年845年-延喜3年903年)。平安時代前期の官僚・文人・学者。菅原是善(これよし)の三男。母は伴氏(詳細不明)。本名は三。幼名阿呼(あこ)。最終の位は従二位右大臣。後世管公と尊称されます。

幼少より秀才のほまれ高く、宇多・醍醐の両帝に仕え右大臣に至りますが左大臣藤原時平の憎しみを買い、讒言されて太宰府に左遷されます。2年後、失意のうちに大宰府で没しました。今日、学問の神として全国で祭られます。

菅原家は代々の学者の家系で、道真も幼少より文才にすぐれ11歳で詩を作り父を驚かせます。貞観4年(862年)18歳で文章生(もんじょうしょう)となり、元慶元年(877年)文章博士(もんじょうはかせ)。

880年父是善が亡くなると祖父清公(きよきみ)以来の菅原家の私塾である菅家廊下(かんけろうか 山陰亭)を主催。

仁和2年(886年)讃岐守に就任。

阿衡事件の解決に尽力

翌887年光孝天皇が崩御。すると当時朝廷で権力を握っていた関白藤原基経の推挙により宇多天皇が即位します。

しかし宇多天皇は内心では藤原氏の台頭を快く思わず、いずれ天皇による親政を行おうという考えでした。

即位早々、宇多天皇は藤原基経を引き続き関白の職に任ずる詔勅を下します。藤原基経は当時の作法にのっとりいったん辞退します。

その後宇多天皇は当時最高の学者といわれた左大弁橘広相(さだいべん たちばなのひろみ)に文章を書かせます。

「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」

しかし、この文章に藤原基経の側近、文章博士藤原佐世(もんじょうはかせ ふじわらのすけよ)が噛みつきます。

「基経さま、だまされてはなりませぬ。阿衡とは位が高いだけで実権の無い名誉職です」。

「なに名誉職。ワシを国政から締め出そうというのか。ミカドのお気持ちはよくわかった。誰が実力を握っているのか、この際思い知らせてやる」

怒った藤原基経は一切の政務を放棄し、国政が立ち行かなくなってしまいました。宇多天皇は困り果ててしまいます。

「はあ…どうしたものか。そうじゃ。こんな時こそ道真に相談しよう」

宇多天皇は讃岐に赴任していた菅原道真を召し出し、意見を求めます。

菅原道真は宇多天皇に進言します。

「橘広相を処罰し、藤原基経殿を再度関白の位につけるべきです」

「わかった道真。そちが言うことであれば、従おう」

宇多天皇は道真の進言にしたがい橘広相を罷免します。しかし藤原基経の怒りは収まりません。

「ただの罷免では生ぬるい。橘広相を島流しにしろ!でなければわしの怒りは収まらぬ」

道真は今度は藤原基経のもとに書状を送ります。これ以上争うことは藤原氏のためにならないのではありませんかと。誠意を尽くした道真の文に、さしもの関白藤原基経も心を動かされます。

「うむ…わしも多少大人げなかった。道真殿の言うこともっともだ。これ以上の争いは止そう」

宇多天皇の信任を得る

こうして事件は丸く収まり、天皇家と藤原氏との衝突は避けられました。しかも双方に遺恨を残さず被害を最小限にとどめた形で。

(道真の采配、見事)

こうして宇多上皇はいよいよ道真を御信頼するようになっていかれました。

寛平2年(890年)道真は讃岐守の任期を終え中央政界に復帰。宇多天皇の信任を得て翌891年には蔵人頭に抜擢されます。この年、長い間権力をふるっていた関白藤原基経が亡くなり、息子の時平が跡をつぎます。

遣唐使の廃止

道真は893年参議、左大弁に至り中央政界に強い影響力を持つに至ります。

894年遣唐大使に任じられますが、道真は遣唐使の廃止を訴えます。

「唐も衰退しておりますし、航路も危険です。その上わが国の財政もひっ迫しており、これ以上遣唐使を派遣することに意義は無かろうと思われます」

「わかった道真。そちが言うことであれば、従おう」

宇多天皇は信頼する道真の進言を受け入れ、ここに260年あまり続いた遣唐使が廃止されます。

その後も道真は中納言、民部卿、春宮大夫、侍読など順調に出世を重ねていきます。

宇多天皇の譲位

897年宇多天皇は13歳の醍醐天皇に譲位し、上皇となります。早く譲位したのは上皇という自由な立場から藤原氏をけん制したいというお考えからだったようです。

「よいか。困ったことがあれば何でも道真に相談するのじゃぞ」

「はいはい。わかっております父上
(まったく父上の道真狂いも困ったものだ…)」

醍醐天皇としては、父の側近である道真に口うるさく言われたくない。 自分は自分のやり方でやりたいというお気持ちがあったと思われます。

宇多上皇と醍醐天皇
【宇多上皇と醍醐天皇】

宇多上皇の宮滝御幸

昌泰3年(898年)10月23日。宇多上皇は宮滝へ御幸し、道真もそのお供をします。

吉野の宮滝から竜田川を越えて、河内に入り住吉神宮に参拝して京都へ戻ってくるという大規模な旅です。道すがら、見事な紅葉が一行の目を喜ばせます。

宇多上皇の宮滝御幸
【宇多上皇の宮滝御幸】

あちらでも、こちらでも感嘆の声が上がる中、馬にまたがった菅原道真は歌を詠みました。

このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
(このたびは急な旅でしたので満足な捧げものも準備できませんでした。せめて手向山の道祖神よ、錦のように素晴らしいこの紅葉を、お心のままにお納めください)

この歌が後に百人一首に採用されました。

左大臣藤原時平 右大臣菅原道真

翌年の899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられます。菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となりました。

おもしろくないのは時平です。「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」。

危機感をつのらせた藤原時平、菅原道真がその娘を宇多上皇の子で醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせていることに目をつけました。

菅原道真と斉世親王
【菅原道真と斉世親王】

藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言します。

「道真は帝を追放し、弟君の斉世親王を天皇の位につけるつもりです。これは謀反です」

「なに道真が。けしからぬ」

醍醐天皇はもともと口うるさい道真とその背後にいる父宇多上皇を煙たく思っていました。そこへ時平の讒言です。ここぞとばかりに菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷し、大宰府送りとされます。

面会謝絶

知らせを受けた醍醐天皇の父宇多上皇は大いに驚かれます。

「道真が謀反。そんなばかな。道真の人柄の確かなことは、我が誰よりも知っておる。帝は誤解されているのじゃ」

宇多上皇はすぐにわが子醍醐天皇のもとに御輿を走らせます。しかし皇居に駆け付けた宇多上皇のお輿は門の前で行く手を阻まれます。

「帝はお会いにならないとおっしゃっています」
「なぜ阻む。これなるは上皇様の御輿であるぞ」
「誰であろうと、門を開けるなと帝の仰せです」

結局、宇多上皇は引き下がるほかありませんでした。

大宰府へ

一方道真の舘では…

「道真さま、そろそろご出発です」
「わかった…」

道真は、ふと庭のほうを見て、子供の頃から親しんできた梅の木に目を留めます。

(もうこの梅の花が咲くのを見ることはできないのか…。 冬が終わって東風が吹いたら、この梅の花を匂い立たせてくれ。主人の私がいなくなっても、春の訪れを忘れたりしないでおくれ…)

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ

歌の心が通じたのか、梅の花は主人を慕って遠く大宰府まで飛び、その地に降り立ったと言います。

これを「飛梅」と言い、現在も太宰府天満宮の本殿前に御神木として植えられています。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没しました。

怨霊となった道真

道真の死後、都では異常な出来事が相次ぎます。飢饉や干ばつ。そして道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げます。

906年、道真左遷の陰謀にくみした藤原定国(ふじわらのさだくに)が 40歳で亡くなったのを始めとして…

908年、宇多上皇が醍醐天皇に面会に来られたのを皇居の門前で拒んだ藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死亡。

藤原時平の狂死

そして909年、道真最大の政敵藤原時平は病の床にありました。

「苦しい!苦しい!うおお頭が割れるようだ」

多くの僧を集めて加持祈祷をささげますが、時平の病は治る様子もありません。その時、皆が見ている前で信じられないことが起こります。

病にあえぐ時平の左右の耳からにゅるにゅるにゅるーっと二匹の蛇が滑り出し、

「おおお!」

驚く人々を尻目に、二匹の蛇はシャーーツと鎌首をもたげ、話し始めました。

「我こそは藤原時平の讒言によって無実の罪を得て大宰府に下り、かの地で失意のうちに没した菅原道真である。我は天帝より許可を受け、憎き敵に復讐を下しているのだ。加持祈祷など無駄なこと。やめい」

「た、祟りだーっ」
「菅公の祟りだーっ」

このような事があった後、程なくして時平は亡くなりました。39歳でした。

923年には藤原時平の妹と醍醐天皇の皇太子保明皇子(やすあきらおうじ)が亡くなります。

「菅公の祟りだ…菅公の祟りだ…ぶるぶる」

人々はただ恐れるばかりでした。

清涼殿落雷事件

延長8年(930年)6月26日。宮中の清涼殿では、重要な朝議が行なわれていました。

その時、愛宕山の方角から沸き立った黒雲はまたたく間に平安京全体を覆いつくし、雷まじりの激しい雨となります。そして、

ビカッ、ガラガラガラーーッ!!

「ぎゃああああ!!」

ものすごい音と光とともに、清涼殿に雷が直撃します。大納言はじめ六人が死亡するという大惨事となりました。この時醍醐天皇も清涼殿にいらっしゃり、惨状を目のあたりにされます。

「なんという残酷…ああ。これも道真の祟りなのか。
道真。それほど我が憎いか。もうやめてくれ。やめてくれ…」

3ケ月後、醍醐天皇は崩御しました。

こうして菅原道真の左遷にかかわった主だった人々はすべて死に絶えました。「とにかく復讐は終わった」「もう済んだことなのだ」時が流れ、次第に人々は道真のことを忘れていきました。菅公・菅原道真の名が人々の口にのぼることも少なくなっていきました。

そんな折、菅原道真の名は思わぬ形でふたたび歴史に登場することとなります。

平将門と菅原道真

9世紀の末。桓武天皇の血を引く高望王は臣籍に降下して平高望と名乗り、国司として赴任した上総国にそのまま住みつきました。孫の平将門の代には下総を中心に関東に大きな力をふるう勢力となっていました。

承平5年(935年)平将門は、土地の権利争いから常陸(茨城)の叔父、平国香を殺害。ついで下野の叔父良兼、平国香の息子貞盛らとも争いを始めます。

源護が将門の非を都に訴え、将門は都に呼び出されます。

「平将門。そのほう同族に戦をしかけ、土地を奪ったと訴えられておるぞ」
「とんでもない。先にしかけてきたのは向こうです」

将門の言い訳虚しく捕えられてしまいますが、しかし程なくして朱雀天皇元服の大赦によって将門は帰国。

将門が下総に戻ると叔父の良兼に攻め込まれ、同族争いは激しさを増します。時を同じくして常陸や武蔵でも国司と土地の豪族たちとの間で争いが起こっていました。

そんな折、常陸の豪族藤原玄明(ふじわらのはるあき)が国司と対立して国を追われ、将門に庇護を求めてきました。左様ですか、ほとぼり冷めるまで好きにしていってください。そうこうしている内に常陸国府から再三、玄明の身柄引き渡し要求が来ます。

「こちらを頼ってきてくれた客人を敵に引き渡すなど。将門はそんな料簡の男では無いぞ。見損なうな」

ついに将門は常陸に侵攻。常陸国府を焼き払い、朝廷が国司に与えた印綬を奪いました。これによって将門は公然と朝廷の敵となってしまいました。

「とうとう朝敵となってしまった。こうなったらとことんやるまで」

将門は関東一円を制圧し受領を追放。飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していきます。その時、将門のもとに巫女を通してお告げが下ります。

「亡き菅原道真公のお告げである。将門を新しい天皇、新皇に任ずる」

「おおお…」
「新皇!」「新皇!」
「新皇ばんざーい!」

新皇と称した平将門は独自に除目を行い、下総の岩井に京都をまねた王宮を建設。弟や同盟者たちを関東の国司に任じ、関東に独立政権を築こうとしました。

しかし940年藤原秀郷と平国香の子貞盛らによって将門は討ち取られ、新皇将門の支配は、わずか数か月で終わりました。

一説によると菅原道真が大宰府で死んだ903年に平将門が生まれたといい、当時から平将門を菅原道真の生まれ変わりと見る声があったようです。

北野天満宮 そして学問の神に

このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がなされます。死後20年目の名誉回復でした。正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られます。

そして947年京都に道真をまつった北野天満宮が建てられ、今日に至るまで信仰を集めています。

「九月十日」菅原道真
↑こちらで菅原道真の漢詩を朗読しています。大宰府に左遷されて一年目の気持ちを歌ったものです。