小倉山峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ 貞信公

おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなん (ていしんこう)

意味

小倉山の紅葉葉よ、もしお前に心があるのなら、もう一度天子様の行幸がある時まで、どうか散らないでいておくれ。

語句

■小倉山 京都右京区嵯峨にある山で、大堰川を隔てて嵐山と対する。紅葉の名所で歌枕。ふもとには百人一首が編纂にかかわる宇都宮蓮生の舘があった。小倉山の山荘で作られたので「小倉百人一首」。 ■峰のもみぢ葉 峰のもみじ葉よと呼びかけた表現。■心あらば 風流を解する心があるならば、もみじを擬人化して呼びかけている。 ■みゆき 行幸。ここでは醍醐天皇の行幸をさす。天皇が外出されることを「行幸」、上皇や法皇や女院が外出されることを「御幸」と言う。訓読だとどちらも「みゆき」。 ■なむ 「~してほしい」他者への願望をあらわす終助詞。

出典

拾遺集(巻17・雑秋1128)。詞書に「亭子の院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して 小一条太政大臣貞信公」。

決まり字

おぐ

解説

延長4年(926)年、10月10日宇多上皇(法皇)が大堰川(おおいがわ)に御幸された時に、その見事な景色につくづく感心されます。そしてわが子醍醐天皇にもぜひ見せてやりたいとおっしゃいました。それを受けてお供の藤原忠平が作った歌です。

作者 貞信公

貞心公 藤原忠平(880-949)平安時代中期の政治家。関白藤原基経の四男。母は人康親王の女。菅原道真を左遷においやった藤原時平の弟。兄時平、仲平とともに「三平」と称されました。

三平
【三平】

延喜9年(909年)兄時平が没すると藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ 代表者)となります。

914年右大臣、924年左大臣、927年兄時平から引き継いだ『延喜格式』の編纂を完成させます。

『延喜格式』は朝廷の運営や儀式について定めた法典です。延喜五(905)年、兄時平が存命中に醍醐天皇から勅命を受けて始めた大事業でした。

醍醐天皇のもと時平忠平二代にわたっておこなった政治をその元号から「延喜の治」と言い、後世天皇親政が充実していた理想の時代と見られるようになります。

930年醍醐天皇が崩御、朱雀天皇が即位すると忠平は摂政に任じられます。932年従一位、936年摂政の役職はそのままに太政大臣に至ります。941年関白となり以後村上天皇の初期まで関白の位にありました。

これにより藤原氏の支配は安定し、後の藤原道長の摂関政治に至る道のりが整えられました。

人格は温厚篤実。兄時平が菅原道真を左遷に追いやる一方、忠平は道真の政治家としての能力を評価し、左遷された後もたびたび手紙を送り、道真の死後もその名誉回復につとめました。

死後「貞信公」と諡されました。

著書に『貞心公教命』、日記に『貞心公日記』。忠平の逸話は『大鏡』『古事談』に見えます。