御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣

みかきもり えじのたくひの よるはもえ ひるはきえつつ ものをこそおもえ (おおなかとみのよしのぶあそん)

意味

宮中の御門を警護する衛士の焚くかがり火が夜は燃えて昼は消えるように、私は貴女を思って夜は恋心が燃え上がり、昼は心が消え入るほどです。

語句

■御垣守衛士のたく火の 「衛士」は律令制において宮中の御門を警護する武士。諸国の軍団から召しだされ、はじめ衛士府、のちに衛門府に属しました。掃除やいろいろな雑用をやったが、夜間の主な仕事は宮中の御門を警護することだった。だから「御門を守る警護の武士」という意味で、「御垣守・衛士」。初句から「たく火の」までが序詞。 ■夜は燃え昼は消えつつ 夜はかがり火が燃え上がり、昼は心の動きが消えてしまう。「つつ」は動作の反復。毎日毎日、「夜は燃え、昼は消える」のが交互に繰り返されるということ。 ■ものをこそ思へ 「ものを思ふ」は恋の思いに沈むこと。係助詞「こそ」を動詞の已然形「思へ」で結び、係り結びが成立。

出典

詞花集(巻7・恋上・225)詞書に「題知らず 大中臣能宣朝臣」。

決まり字

みかき

解説

昼も夜もあなたのことを思っています…昼の明るさと夜の闇の対比が印象的な歌です。

作者 大中臣能宣朝臣

大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)、大中臣能宣(921-991)。平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副(じんぎたいふ)大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)の子。最終官位は正四位下。

父頼基も、子の輔親も、孫の伊勢大輔も歌人です。代々歌人を出した家系です。家集に『能宣集』があり『拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が採られています。

大中臣氏はもと中臣氏といい代々朝廷の神事をつかさどっていました。中臣鎌足も中臣氏でしたが、天智天皇より「藤原」の姓をたまわり息子の不比等が藤原氏の初代となります。その後、不比等はほかの中臣氏が「藤原」の姓を名乗れないように工作したともいいます。

奈良時代後期、中臣氏は女帝称徳天皇より「大」の字を賜り「大中臣」を名乗ったと伝えられています。

天暦5年(951年)、村上天皇の勅命によって「和歌所」が設置されると大中臣能宣も和歌所の寄人として万葉集の訓読と『後撰集』の編纂にあたりました。

梨壷の五人…その構成員は坂上望城(さかのうえのもちき)、紀時文(きのときぶみ)、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔、源順(みなもとのしたごう)。坂上望城は31番坂上是則の子、紀時文は35番紀貫之の子。そうそうたるメンバーでした。

「和歌所」は宮中の昭陽舎(しょうようしゃ)に本部があり昭陽舎の庭には梨が植えてあったので彼ら五人のことを「梨壷の五人」と言いました。

代々の歌人の家系らしく、歌について父に厳しくしつけられた逸話が伝えられています。

ある時、能宣は式部卿宮(宇多天皇第八皇子)に子の日の祝いにうかがいます。子の日の祝いとは正月はじめの子の日に庭に小松を植えて千代を祈る行事です。その時能宣は、このような歌を詠んで式部卿宮にささげます。

ちとせまで限れる松も今日よりは君にひかれてよろづ世や経ん
(千年までと年齢が決まっている松も、今日からはあなたの寿命にあやかって万年も生きながらえるでしょう)

人々は能宣の歌を絶賛しました。本人も得意だったかもしれません。 しかし父頼基はこの歌を暫く吟じた後、かたわらなる杖を取り、いきなり能宣を打ち据えました。

天皇の徳をたたえる子の日に歌に、最高傑作を親王に対して献じてしまい、それでは天皇に対してどんな歌を詠むつもりだ。宮廷歌人というものは常に立場を考えて歌を作らないとダメだと。

能宣は父に褒められると思っていたのが逆に叱られたのでほうほうのていで逃げ出しました。能宣の家系が代々歌に厳しい血筋であったことを示す逸話です。