かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方朝臣

かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもいを(ふじわらのさねかたあっそん)

意味

あなたを恋い慕う気持ちを口に出して言うことさえできず、伊吹山のさしも草のように私の恋心は燃えています。私の火のように燃える恋心なんて、あなたは知らないでしょうけど。

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語句

■かくとだに 「かく」は「このように」という意味の副詞。「だに」は「せめて~だけでも」の意味の副助詞。 ■えやはいぶきの 「えやはいふ」と「伊吹山」の掛詞。言うことができようか、いやできないの意。「伊吹山」は近江と美濃の境にある山。 ■さしも草 よもぎの異称。お灸に用いるも草の材料となる。「燃ゆる」の縁語。「いぶきのさしも草」が下の「さしも」に掛かる同音反復の序詞。 ■さしも知らじな 「さしも」はこんなにも。「さ」は副詞。「し」「も」ともに強意の助詞。 ■思ひ 「ひ」に「火」を掛ける。「さしも草」「燃ゆる」「火」は縁語。「思ひを」は意味上「知らじな」に続く。倒置法。

出典

後拾遺集(巻11・恋1・612)詞書に「女にはじめてつかはしける 藤原実方朝臣」。

決まり字

かく

解説

この歌は訳せません。技巧が多くて、無理に訳してもメチャクチャな日本語になります。百人一首で一番難解な歌だと思います。

一番のテーマは最後の「燃ゆる思ひを」です。一番のテーマは恋心が燃えているのです。秘めた恋の歌です。まずそれをふまえた上で細かい意味を見ていきましょう。

まず前半の「かくとだにえやはいぶきのさしも草」。「えやはいぶきのさしも草」の中には、「えやは言ふ」というフレーズが隠されています。

これは「言えようか、いや、言えない」という意味です。

そして前半の「かくとだに」は、「こうとさえ」です。だから「かくとだにえやは言う」で、「こうですよ、とさえ、言えようか、いや、言えない」です。

そして、これは恋の歌ですから、何を言えないかというと、恋する気持ちを言えないのです。

で、「かくとだにえやは言う」で「貴女を恋い慕っているこの状態を、口に出して言うことすらできません」という解釈になります。

そして「息吹のさしも草」は近江と美濃の境にある息吹山で採れるも草のことです。も草だからお灸にするんです。ブスブスと煙が出ます。つまり、燃える恋心のたとえです。

「さしも知らじな」は「そうとは知らないでしょうね」。これは相手の女性に対して、「私がこんなにも貴女を恋い慕っている、貴女はその気持ちなんて知らないでしょうね」と。ちょっとすねてる感じでしょうか。

こういったことがすべて最後の「燃ゆる思ひを」につながっていきます。そして「思ひ」の「ひ」は「火」の掛詞です。

「いぶきのさしも草、さしも知らじな燃ゆる思いを」全体で、「息吹山のさしも草のように、私は貴女への恋心に燃えています。貴女はそんなこと知らないでしょうけど」となります。

実は私は長年この歌は嫌いだったんですよ。それは技巧に走りすぎていて、ややこしい。何よりもこうやって説明するのが大変難しい。どう説明していいのかなと、いつも頭がグチャグチャになるので好まなかったんですけども、

それはマジメに、ちゃんと解釈しようとするからであって、あまり一字一句丁寧に解釈するということではなく、全体の言葉の流れを声に出して、

かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

と言葉の流れを見ると、何となく、リズムがあって、とてもいい歌じゃないですか。

言ってる内容自体は単純なことなんですよ。

後半の「燃ゆる思ひを」。ようするに、私の恋心が燃えています。あなたには伝わらないでしょうけどという、内に秘めた恋心。それがテーマです。

別に複雑な内容を言っているわけではないですので、その、燃ゆる思ひをを修飾するために、前にいろいろいろいろ、伊吹山がどうのこうのとか、付いてるわけです。

だからそういう細かい解釈をもう、投げてしまって、ようするにこれは「燃ゆる思ひ」の話だと、いうことを念頭に置いて、

かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

と詠み転がしていくと、舌先で転がしていくと、なかなか味わい深いと思えるようになりました。で、「かくとだにえやはいぶきのさしも草」のあたりに、伊吹山のも草がぶすぶすとくすぶって煙を立てている様子も、浮かぶじゃないですか。

うん。なかなかいい歌だと思います。

藤原実方朝臣(?-998)平安時代中期の官人・歌人。父は藤原定時。母は源雅信の娘。26番貞信公の曾孫。叔父済時(なりとき)の養子となります。侍従右兵衛権佐を経て従四位上に叙せられ左近衛中将に至ります。

藤原実方
藤原実方

中古三十六歌仙の一人。円融・花山・一条三代の天皇に仕え、宮中の花形的な存在でした。貴公子、という言葉がよく似合う人物です。

『枕草子』にも登場し、清少納言とは恋愛関係にあったとも言われます。清少納言の他にも宮中の多くの女性と関係を持ち、光源氏のモデルの一人と見られています。

桜狩の歌

一条天皇の時代、実方ら殿上人は東山に桜を見に出かけます。
道中、にわか雨がふってきます。

「雨だ、雨だ」

皆、木陰に隠れます。晴れの衣装もぬれてしまい、
せっかくの花見も台無しです。皆、不満顔です。

そんな中、実方がつぶやきました。

さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にくらさむ

桜狩の道中、雨が降ってきた。
どうせだから同じ濡れるなら花の陰で雨が通り過ぎるのを待とう。

だいぶナルシストな感じですね。「水もしたたるいい男」という
言葉がありますが、さぞかし、しっとりと雨に濡れて、
本人もほれぼれしてたたずんでいたと思います。

女房たちも大騒ぎです。

「きゃあ実方さま素敵。何をやってもカッコいいわ」と。

この話はすぐに一条天皇の知る所となります。
一条天皇以下側近たち、実方の風流に感じ入ります。

「おお…さすがは実方殿」
「雨も感じ方しだいというわけですか」

しかし、そんな中、異を唱える男がありました。
藤原行成。能書家として有名な人物ですが、
前々から実方とは確執があった男です。

「そんな、雨の中で立ち尽くしているなんて、
わざとらしいですね。実方殿はバカですか

行成のこの言葉はすぐに実方に伝わります。

実方は内心、歌にもその立ち振る舞いにも
カッコいい、いけてると自信があったのでしょう。
カチンと来ます。

「歌枕見てまいれ」

実方は後々までこの日の屈辱を覚えていました。

後日、宮中で、行成と歌の議論になった時、
実方の怒りはついに頂点に達します。

「行成殿、あんた文句ばっかりだ!」

バシシーーーッ

なんと、実方は持っていた笏で行成の冠を叩き落します。
周囲は息をのみます。

冠は当時の男性にとって一番大切なもの。
それを叩き落とすとは大変な侮辱です。

しかし行成は冷静でした。

宮中の雑事を行う主殿司(とのもりづかさ)に冠を拾わせ、
鬢の毛を整えると、おもむろに実方のほうに向き直って言いました。

「どういうわけでこんな事をなさるのか。
理由をうかがいたいものです」

「ぐっ…」

実方は答えようもなく、ほうほうの体でその場を逃げ去りました。

ところが一条天皇が小蔀の陰からこの一部始終を
見ておられました。

(うーん行成の態度の何とりっぱなこと。
それに引き替え実方。少しばかり才能があって
女房たちにもてるのを鼻にかけおって。
いかんなあ あの男は…)

一条天皇は行成を蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢し昇進させます。
一方の実方も、一条天皇の前に召し出され、こう告げられました。

「歌枕見てまいれ」

歌枕見てまいれ…つまり、歌枕の多い陸奥の地に行って来い。 ようは、左遷です。

同じ左遷するにしても「歌枕見てまいれ」は
洒落た言い方ですね。

都の友人たちと交わした歌

奥州に下った実方は、普段から親しくしていた右近中将師宣(うこんのちゅうじょうもろのぶ)に文を書き送りました。

やすらはで思ひ立ちにし東路にありけるものを憚りの関

(ためらいもなく都を出てきた私ですが、東路の憚りの関を通ったら、その名の通り気後れがしています)

また友人の大納言公任は、実方が都を出発する時、「あづまぢの木の下暗くなりゆかば都の月を恋ひざらめやは(東路の木の下であたりが暗くなっていく時分には、都の月を恋しくお思いにならないのでしょうか。きっと思いましょう)」と歌を添えて、馬の下鞍(したぐら)を餞別してくれました。

「下鞍」とは馬具の名前で、鞍の下に添えて馬の両脇に当てる板状のものです。

実方はこう返しました。

ことづてん都の方へ行く月の木の下暗く今ぞ惑ふと

(君に言伝しよう。都のある西の方へと傾き行く月。その月の下の木の下の暗がり。その暗がりの中で私は道に迷い心も迷っていると)

安積沼花かつみの話

さて陸奥国に下った実方は、五月五日に軒に菖蒲(あやめ)を葺こうとしました。しかし、土地の者は誰も、菖蒲というものを知りませんでした。どうやらこの地には菖蒲は無いらしいのです。

「ええい。水草なら何でも同じだ。こうこう、こういうヤツだ。似たようなのは無いか」
「これは…安積沼の勝見が近いような気がします」
「それでいい。持ってこい」

こうして菖蒲のかわりに勝見を葺き、以後陸奥では端午の節句には勝見を葺く習慣となりました。ただし勝見というのがどんな植物かははっきりわかりません。

松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で藤中将実方にまつわる「勝見」を訪ねてまわったが、ついに見つけることが出来なかったと記しています。

阿古屋の松

一条天皇は実方に「歌枕見てまいれ」とおっしゃいました。この言葉通り、実方は陸奥の有名な歌枕を記録に取っていきました。この仕事が認められれば再び都に呼び戻されるだろうと。案外マメな男でもあったのです。

三年にわたり数々の歌枕を記録に記しましたが、どうしても「阿古耶の松」が見つかりませんでした。

「ああ…三年探したが、ダメだった」

ガックリと肩を落とす実方。そこへ、一人の老人が声を掛けます。

「何をガックリしとるのかね」

「はい。阿古耶の松を探しているのですが、どうしても見つからないのです」

「ははあ。それは古い歌に『陸奥の阿古耶の松の木高きに出づべき月の出でやらぬかな』とあるのを探して、都からはるばる訪ねてこられたのであろう」

「そう!それです!何かご存知なのですか?」

「見つからないはずじゃよ。もともと陸奥国と出羽国は一つの国だったのじゃ。なので昔の歌には『陸奥の阿古耶の松』といっているが、その後国は二つに分かれた。今は出羽の国に阿古耶の松はあるのじゃ」

「なんと!それは気付きませんでした!」

すぐさま実方は国向うまで馬を飛ばし、出羽の国で阿古耶の松を見つけることが出来ました。この老人は塩竃大名神だと伝えられています。

実方の最期

実方は長徳4年(998年)赴任先の陸奥国で没しました(『古事談』巻2-32)実方の最期についても逸話が伝わっています。

実方が笠島という所を馬で通りかかった時、道の傍に一つの祠がありました。

「ん?何だあの祠は」

村人に尋ねたところ、笠島の道祖神であると。昔、出雲路の道祖神の娘であったが、父の神のお怒りを買ってこの地に流されてきたのだと。

「霊験あらたかな神さまであらせられます。
殿も馬から降りて通られたほうがよろしかろうと思われます」

実方は怒りました。

「ふん。そんな素性のあやしい神にどうして下馬する必要がある」

そのまま素通りしようとします。

ぱっか、ぱっか、ぱっか、ぱっは

その時、笠島の道祖神がお怒りになりました。

「無礼なヤツじゃ」

ドーン!!

「ぎゃひいいい!!」

バッタ…

こうして馬は倒れ実方も振り落とされ、
その傷がもとで亡くなったと伝えられます。

怨霊になった実方

死後、実方の魂はスズメになって宮中にあらわれ
穀物を食い散らかしたと伝えられます。

かなりの騒ぎになったようで、実方の怨霊をしずめるため、
上賀茂神社の橋本社に祭ったと兼好法師は記しています。

それにしてもスズメとは…。祟りにしてはかわいいですね。
「藤原のちゅん様」とでもお呼びしたいところです。

冠を叩き落としたことも、神社の前で下馬しなかったことも
真偽のほどはわかりませんが、そのような逸話が伝えられるような、
直情型で傲慢なところがあったのかもしれません。

西行法師 実方の塚を訪ねる

実方の墓は現在の宮城県名取市の笠島神社に祭られ、
西行法師や松尾芭蕉も墓を訪れています。

西行法師が30代のころ、奥州に下りました。見ると野中に目立つ塚が立っています。

「何だあれは?」

村人に尋ねると、中将の墓だという答えでした。

「中将?中将とはどこの中将だ。何!藤中将実方朝臣!
おお何とおいたわしい…」

折しも冬のことで霜枯れの薄が茂っていました。
もの悲しさに西行、

朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野の薄形見とぞ見る

(けして朽ちることの無いその名ばかりを留め置いて、実方中将の塚は荒れ果てている。私は枯野の薄を実方中将の形見と見るのだ)

更雀寺(きょうしゃくじ)

最後に、実方中将ゆかりの地のご紹介です。

京都洛北の更雀寺(きょうしゃくじ)。

浄土宗西山禅林寺派の寺です。

延暦十二年(793)桓武天皇の勅願で、賢憬(けんけい)上人が三条付近に創建。

後に藤原氏の学校・勧学院となりました。

江戸時代に四条大宮に移築され、今から40年ほど前に、
現在の位置、左京区静市市原町(しずいちいちはらちょう)に移築されました。

京都と鞍馬の中間くらいにあります。

更雀寺は別名「雀寺」と呼ばれ、
境内に実方中将の伝説にまつわる「雀塚」があります。

実方中将の昔に思いを馳せながら、
境内を散策してみるのもいいですね。

奥の細道「あさか山」 「笠島」
↑松尾芭蕉は「奥の細道」の旅の中で、実方の史跡を訪ねています。

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