あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部

あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの おうこともがな(いずみしきぶ)

意味

私はじきに死んでしまうでしょう。あの世に持っていく思い出に、最後にもう一度だけ貴方に会いたい。

語句

■あらざらむ 生きてはいないだろう。下の「この世」を修飾する。「あら」はラ変動詞「あり」の未然形。「む」は推量の助動詞「む」の連体形。■この世のほか」は来世。死後の世界。「この世」は現世。 ■もがな 願望の終助詞。

出典

後拾遺集(巻13・恋3・763)詞書に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」。『和泉式部集』の詞書には「ここあしきころ、人に」とあり、「心地例ならず」とか「心地あしき」は病気であること。病気が重く死を覚悟した時に人に遣わせた歌ですが、「人」が誰かはわかっていません。

決まり字

あらざ

解説

和泉式部は数々の男性と恋愛関係になり、恋から恋へわたり歩いた奔放な女性というイメージがありますが、この歌にはそういう奔放なものは感じられず、むしろけなげな、まっすぐな感じです。

作者 和泉式部

和泉式部。生没年未詳。父は大江雅致(おおえのまさむね)。母は平保衡(たいらのやすひら)の女か?

藤原道長は和泉式部のことを、その奔放な恋愛遍歴から「浮かれ女」といいました。また中宮彰子に仕えた同僚の紫式部は「和泉式部は和歌や恋文は達者だが素行は感心できない」と、かなり辛らつに書いています。

性空上人に贈った歌

まだ和泉式部と呼ばれる前の少女時代、書写山円教寺(姫路市)を開いた名僧性空上人に書き贈った歌がよく知られています。

暗きより暗き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の月

(さらに暗い道に入っていく私だ。山の端の月よ。私の行く先をはるかに照らしてください)

はやくも波乱に満ちた人生を予感し、闇路を恐れている様子が伝わってきます。

『和泉式部日記』

999年までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。道貞が和泉守に任じられると、夫の官職名から以後、和泉式部と女房名で呼ばれることになります。

夫道貞との間に小式部内侍が生まれますが、その後冷泉天皇第三皇子為尊親王と恋仲になり、夫との関係は破綻。父雅致も身分違いの恋だと怒り狂い、式部を勘当します。

1002年、不倫相手の為尊親王が20代の若さで亡くなると、翌年、弟の敦道親王に求愛され、式部は受け入れます。兄弟ともに関係を持ったわけです。その上式部は東三条の館に引き取られ、世間から悪評を集めます。

『和泉式部日記』弟敦道親王と恋愛の始終を、歌のやりとりを中心に描いた日記文学です。

悲しみに暮れる和泉式部のもとに、為尊親王の弟・敦道親王(あつみちしんのう)からの使いが来ます。やがて和泉式部と敦道親王との間で歌のやりとりが始まり、男女の関係へと発展していきます…日記という形式に仮託して他人が書いた創作という説もありますが…

▼こちらで解説しています▼
聴いて楽しむ古典の名作・名場面『和泉式部日記』

敦道親王との間には一子・永覚が生まれます。

ところが1007年、敦道親王も兄と同じく20代の若さで亡くなります。式部の悲しみはたいへんなもので一年間喪に服しています。

小式部を失う

翌年の1008年、式部は一条天皇の中宮彰子に出仕。同じく中宮彰子に仕えた紫式部らと文芸サロンを形成します。彰子の父・藤原道長の家司(けいし 職員)で武勇のほまれ高い藤原保昌(ふじわらのやすまさ 958-1036)と結婚し、夫の任地丹後に下りました。

1025年、娘の小式部内侍が二十代の若さで亡くなると、式部は絶唱とも言える歌を詠んでいます。

とどめおきて誰をあはれと思ふらん 子はまさるらん子はまさりけり

(子供たちと私を遺して、あの子は今誰のことを思っているだろう。 きっと子供たちのことに違いない。私だって親よりも子供のことを思っているのだから)

などて君空しき空に消えにけむ 淡雪だにもふればふる世に

(どうして貴女は、あんなに空しく亡くなってしまったのでしょう。淡雪さえも、降ればしばらく留まっているものなのに)

宮より、「露置きたる唐衣参らせよ、経の表紙にせむ」、と召したるに、結びつけたる
置くと見し露もありけり はかなくて消えにし人をなににたとへむ

(和泉式部と小式部内侍がお仕えしていた彰子のもとから、「小式部が生前着ていた露模様の唐衣をください。経の表紙にしましょう」と言ってこられたので、衣に結びつけた歌。露を置いていたと見えたわが子・小式部の唐衣。はかないものの例えにいわれる露さえ、まだ衣の上に留まっていますのに、はかなく亡くなってしまったあの子のことを何に例えましょう)

和泉式部はまた娘の遺品を整理しながら口ずさみました。

もろともに苔の下にはくちずしてうづもれぬ名をみるぞ悲しき

(あの子と一緒に苔の下に朽ち果てることもできず、あの子の名が、名声が埋もれていくのを、私は生きて見ている。悲しいことだ)(『和泉式部集』)

下賀茂神社で歌を詠んだ話

和泉式部が京都下賀茂神社に参詣した時のことです。

下賀茂神社は、鴨川が二手に分かれる三角州地帯にあります。現在も、糺の森といううっそうとしげった鎮守の森が広がっています。

今は大きな参道が真ん中に通っていますが、和泉式部の時代は、うっそうとした森林でした。その中を、壺装束の和泉式部が、しゃなり、しゃなりと歩いていきます。お供の女房を二三人ひきつれて。

「あっ、いたい」

見ると、草鞋で足が擦り切れていました。「どうしましょう」「式部さま、とりあえず紙を巻いておいてください」「あらそう借りるわね」

和泉式部は、足が擦り切れた所に紙を巻いて、下賀茂神社の社殿の前に行って、ぱんぱんと手をあわせていました。

「あれが和泉式部だって」
「へえー、あの有名な」

まわりの人びとは興味津々です。その中に、下賀茂神社の神主が、懐紙に句を書いて、よこしました。

ちはやぶるかみをば足に巻くものか

畏れ多くも神様を足にまいてよいんですかな。「神」と「紙」をかけているわけです。さあ和泉式部どう出てくるか。有名な歌人の和泉式部だから、さぞかし当意即妙で返してくるにちがいない。神主はワクワクして、待っていました。

和泉式部、クスリとほほえみ、ふところから筆を取りだして、
さらさらさら…すっと返した下の句は、

これをぞ下の社とはいふ

だって、ここは下賀茂神社ではありませんか。「下」は「足」の縁語です。

「おお!さすが和泉式部」

神主はじめ下賀茂神社のまわりの人びとは惜しみない拍手を送りました。

鹿狩りを止めた歌

和泉式部が丹後守藤原保昌の妻として丹後へ下っていた頃、
ある夜、夫保昌が仲間を集めて明日の鹿狩りの準備をしていました。

そこへ、悲しげな鹿の声が響いてきます。

思わず胸をおさえる和泉式部。「貴方、よしてください。明日の狩は」

「はっ?おいおい、お前何を言い出すんだ
こんなに仲間たちも集まっているんだよ」

「だって…あの声…あまりにも哀れじゃないですか。
明日は死ぬことを悟って、あんなにも、鹿が鳴くんですわ」

「ばかな。鹿にそんな感覚などあるものか
昔から馬と鹿はバカと決まってる。奴ら、何も考えちゃおらんよ。
しかしまあ…そんなに言うなら、お前は歌が得意だから、
よい歌を詠んでみろ。その出来如何によっては、鹿狩りを中止してやろう」

「わかりました」

和泉式部はすかさず詠みました。

ことはりやいかでか鹿の鳴かざらん
今宵ばかりの命と思へば

(鹿たちがこんなに鳴いているのも道理です。
今夜までの命だと、悟っているのです)

「ぐ…ぐぬっ。なんか調子が狂っちゃったな」

こうして保昌は、明日の狩は中止にしました。

貴船明神参詣の歌

もの思へば沢のほたるもわが身より
あくがれ出づるたまかとぞ見る

(思い悩んでいると、沢の蛍も私の身から離れ出た魂かと思われます)

この歌は詞書に「男に忘れられて侍りける頃、貴船にまゐりて、御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる」とあります。男に忘れられた頃、貴船明神に参って、御手洗川に蛍が飛ぶのを見て詠んだ。「男」は一説に二度目の夫藤原保昌とされます。

すると社の内より…

奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の
たま散るばかり物な思ひそ

(奥山にたぎり落ちる滝の瀬の水玉が飛び散るような、
そんな深刻な物思いは、およしなさい)

という歌を、貴船明神が返しとしてお詠みになった…

と、和泉式部は感じました。はたしてその後、悩みは晴れたということです。

晩年

晩年は尼となり誠心院(じょうしんいん)と名乗りました。その寺は小御堂といって御堂関白といわれた藤原道長の領土だったのを和泉式部に賜りました。京都新京極通内にある、誠心院(せいしんいん)です。もとは「じょうしんいん」と言っていましたが、近年「せいしんいん」と言うようになったようです。

境内にはなぜか、役行者(役小角)の像があります。和泉式部と役行者、何かつながりがあるんでしょうか…。