めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな 紫式部

こんにちは。左大臣光永です。スーパー行くと
すっかり正月の飾り物やオモチ、お屠蘇まで売ってますね。
季節は移りかわってますね!今年はあなたにとってどんな一年だったでしょうか?

最初に商品の発送に関して。

「百人一首」のご注文に対し、
間違って「方丈記」を送るという発送ミスがありました。
たいへんご迷惑をおかけいたしました。
間違って届いた方はすぐにご連絡ください。
最優先で、再度お送りします。

さて、本日は百人一首から紫式部の歌です。


http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/uta57.mp3

めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
 雲隠れにし夜半の月かな
            紫式部

(意味)
たまに姿を現したかと思うとその姿を見定める暇さえ与えず、
すぐに雲に隠れてしまう月のように、
あなたは久しぶりに来てくれたというのに 
もう帰ってしまうんですね。
あなたが確かに昔なじみのあなただと、見定める暇もないほど、
さっさと帰ってしまうんですね。

歌の解説

家集『紫式部集』の巻頭を飾る歌です。

久し振りに幼馴染が訪ねてきてくれたのです。

紫式部は夜を徹して話し合おうとワクワクしていました。
お菓子なんか用意したかもしれませんね。
しかし友人はスッと立ち上がり、

「じゃあ私はそろそろ」
「えっ、今来たばかりじゃないの。
もっとゆっくりしていけばいいのに…」

「ごめんなさいね。そうもいかなくて…」
「そうなの…」

友人は月と競い合うように、そそくさと帰っていきます。
その後ろ姿を見送る紫式部。

(もうちょっと話したかったのに…。
でもそんなこと言ったら面倒な女と思われるかも…)

そこで紫式部 詠みました。

紫式部は内にこもる性格で、
腹を割って人に心の底を打ち明けるというタイプではなく、
したがって友人も多くなかったようです。

常に内にこもり、内にこもり、
自分と人の心の動きを深く観察しました。
清少納言とは正反対です。

そういった内向的な性格が『源氏物語』という
文学を生んだのは感慨深いことです。

また紫式部は清少納言のことを「したり顔にいみじう侍りける人」と
悪し様に評してますが、
社交的で誰からも好かれる清少納言に対する羨望もあったのかもしれません。

作者 紫式部について。

生没年未詳。本名未詳。平安時代中期、
一条天皇の時代に活躍した女流文学者。

『源氏物語』の作者として知られます。
家集『紫式部集』、日記『紫式部日記』があります。

父は学者であり歌人である藤原為時(ふじわらのためとき)。
母は藤原為信(ふじわらのためのぶ)の女。27番中納言兼輔の曾孫。

生前の女房名は「藤原」から「藤式部(とうしきぶ)」であり、
「紫式部」は死後の呼び方と見られています。

「紫」は『源氏物語』のヒロイン紫の上から
「式部」は父の役職名「式部丞(しきぶのじょう)」に由来すると
考えられます。

幼くして母と姉を失い、弟(もしくは兄)の惟規(のぶのり)とともに
父のもとで育てられます。

少女時代の式部の天才ぶりを伝える有名な逸話があります。

弟の惟規が父為時について漢文を勉強していました。
横では姉の式部が聞くともなく聞いていました。

「さあ繰り返すのだ。『力は山を抜き気は世を』」…
「『力は…』…ええと…」

「なんじゃお前は、ちっとも勉強が身につかないなあ」

ところが横で聞いていた式部は、

「●?●?●?」

よどみなく答えます。

「ああ…お前が男子であったなら」

父為時はそう言って悔しがりました。
少女時代の式部の聡明さを伝える逸話です。

996年、越前守となった父に従って北陸に下り、
翌々年帰京。父の同僚の山城守 藤原宣孝(のぶたか)と結婚し
翌年一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ)を生みます。

百人一首に58番に採られている後の大弐三位です。

しかし結婚生活は長く続かず、
2年目の1001年、夫宣孝は亡くなります。

この年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めたと見られ、
その評判によってか1005年一条天皇中宮彰子のもとに出仕することになります。

内にこもりがちで人と打ち解けない式部は、
はじめての宮仕えにとまどったようですが、
しだいに打ち解けていきました。

ある時一条天皇が式部が『日本書紀』を
読んでいることを知り感心されます。

その話が宮中に広まってしまい、
式部はまわりの女房たちから
『日本紀の局(にほんぎのつぼね)』と
あだ名されるようになりました。

しかし式部自身はそのようにもてはやされることを嫌い、
なるべく目立ちたくないと思っていたようです。
それにしてはこんな文章を日記に残したりして、
なんともめんどくさい女って感じがします。

このあたり、自分の文才をはつらつと表に出した清少納言とは対照的です。

『紫式部日記』には、式部が先輩の女房から
「どうして漢字の書など読むのですか。
昔はお経でさえ女は読まなかったものです」と
たしなめられる場面があります。

女は漢字など読むべきではない。
下手に才気ばしって男の真似なんかして
漢字の書物を読んでいると、
ロクなことにならないという根強い考えがありました。

途中5年ほど中断をはさみながらも
中宮彰子に仕え続けましたが、その後の消息は不明です。

「清少納言と紫式部が出会っていたら?」

誰もが妄想するところですが、
清少納言が宮中を去ったのが長保三年(1001年)ごろ。

それから5・6年を隔てた寛弘4年ごろ紫式部が出仕しています。

おそらく紫式部と清少納言が直接
顔をあわすことはなかったと思われます。

清少納言が紫式部を評した文章は、
今のところ発見されていません。

曽祖父 兼輔

紫式部は曽祖父の兼輔を、文学の先達として誇りに思っていました。
百人一首27番に歌を採られている藤原兼輔です。

兼輔の館は鴨川のほとり京極あたりにありました。
この邸宅には紫式部もたびたび出入りしていたといいます。

現在、京都御所東の蘆山寺が兼輔の邸宅跡と見られ、
境内には「紫式部邸宅跡」の碑が建っています
(京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397)。

紫式部の墓は島津製作所紫野工場の隣に
小野篁の墓と並んで立っています
(京都市北区堀川北大路通下ル西)。

墓の西側には、紫式部が晩年を過ごしたという
雲林院(うりんいん)の跡があります。

北野天満宮の北方にある引接寺(いんじょうじ)
千本閻魔堂には、式部供養塔があります
(京都府京都市上京区千本通鞍馬口下ル閻魔前町34)。

ここは小野篁が出入りした地獄の出口の一つとされ、
紫式部と並び小野篁にも思いを馳せながら歩いてみるといいですね。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

明日も百人一首の解説をお届けします。