やすらはで寝なましものをさ夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 赤染衛門

やすらわで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな (あかぞめえもん)

意味

貴方が来てくれないとわかっていたらぐずぐずせずに寝ていましたのに。貴方をお待ちするうちに夜も更けていき、しまいには月が西の空に傾く明け方まで、月をながめておりました。

語句

■やすらはで 「やすらふ」はためらう。「で」は打消の接続助詞。男の約束をあてにして、待つか寝るか、ためらったもの。 ■寝なましものを 「まし」は反実仮想の助動詞。事実に反することを、「もしそうだったら」と想像している。ここでは、実際は寝ずに起きていたのだが、寝ればよかった。 ■さ夜 「さ」は接頭語。 ■までの 「までに」としている本文もある。

出展

後拾遺集(巻12・恋2・680)詞書に「中の関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、たのめて来ざりけるつとめて、女にかはりてよめる 赤染衛門」

決まり字

やす

解説

恋人が約束をすっぽかしたのです。詞書によると中の関白藤原道隆が少将であった頃、赤染衛門の姉妹が道隆とつきあっていたが、道隆が姉妹に来ることをあてにさせておいて来なかった翌朝、赤染衛門が姉妹に代わってその恨み言を詠んだ代作の歌です。

作者 赤染衛門

赤染衛門。生没年未詳。和泉式部と並び称される歌人ですが、経歴には謎が多いです。大隈守赤染時用(あかぞめときもち)の娘ですが、実は平兼盛の娘で、母が懐妊中に赤染時用に嫁いだという説もあります。

父赤染時用が衛門尉(えもんのじょう)であったので赤染衛門と呼ばれました。

藤原道長の妻倫子に仕え、後には道長の娘上東門院彰子にも仕えました。後には学者として名高い大江匡衡(おおえのまさひら)の妻となります。

ある時、藤原公任が思うところあって中納言の職を退こうとしており、その表文(辞表)を書くことを学者たちに依頼しました。はじめ紀斎名(きのときな)、大江以言(おおえのゆきのぶ)に依頼しましたが、公任はいづれの出来にも満足できず、大江匡衡に依頼します。

「う~ん、困った…」
「あなた、どうなさいました?」

夫匡衡があまりに困り果てているのを見かねて、妻赤染衛門がたずねます。

「いやなに、公任卿から表文の下書きを頼まれたのだが…
どう書いたものだろう。ヘタなこと書いたら公任殿は納得されないだろうし…
なにしろメンドくさい方だ」

赤染衛門は少し思案して、言います。

「いったい公任卿は自尊心の強いお方です。
先祖はこれこれたいへんなお歴々なのに、私は出世からあぶれている。
恨めしいことだ…そんな感じで書いたらどうでしょう」

「おお、それいいな。いただき」

夫匡衡は妻赤染衛門の言葉にしたがって表文を書きます。

「臣は五代の太政大臣の嫡男なり」からはじめて、とうとうと先祖の血筋を数え上げ、わが身の不幸を嘆く文でした。

「これだ!これだよ私が言ってほしかったのは!!」

受け取った公任卿は大よろこびしました。内助の功を絵に描いたような赤染衛門の逸話です。

また赤染衛門には挙周(たかちか)という子がいました。挙周が和泉守となり、任が終えた後、重い病にかかりました。その時赤染衛門は難波の住吉大社に歌をささげました。

代らんといひし命は惜しからでさても別れん事ぞ悲しき

(あの子のためなら、この命など身代わりになっても惜しくない。それにしても、あの子と別れる事はたいへん悲しい)

頼みては久しくなりぬ住吉のまつこの度のしるし見せなん

(ずっと頼みにしてきた住吉の松。今こそ、その霊験あらたかなしるしを見せてください)

千歳よとまだみどり子にありしよりただ住吉の松を祈りき

(千年も長生きしなさいと、まだこの子がみどり子であった頃から、ただ住吉大社の松を祈ったものです)

これらの歌を三本の御幣に書いて住吉大社に奉納したところ、夢の中に白髪の老人が現れ手にその御幣を持っていました。夢から覚めてのち、挙周の病はすぐに癒えました。

また江の侍従という女の子がいて、彼女もやはり歌人として有名になりました。

夫匡衡が亡くなった後、赤染衛門は尼になったと伝えられます。

赤染衛門は『栄華物語』の作者といわれますが、『栄華物語』は寛治2年までを記すので、赤染衛門は百二三十歳の計算になります。さすがに当時そこまでの長生きは不自然なので、『栄華物語』の作者が赤染衛門説はあやしいです。