夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ 清少納言

よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ (せいしょうなごん)

意味

まだ夜が明けないうちに、孟嘗君の故事のように鶏の鳴きまねをして関守を騙して門を開けさせようとしても、ムダですよ。私と貴方の間にある逢坂の関はけして開きませんからね。

語句

■夜をこめて 夜がまた深いうちに。「こむ」は中にしまう・包み込む。 ■鳥のそらね 鳥の鳴きまね。『史記』の孟嘗君の逸話をふまえる。戦国時代、斉の孟嘗君が秦に使いをして捕えられ、部下に鳥の鳴きまねをさせて一番鳥が鳴かないと開かない函谷関をあけさせて逃れた。 ■はかるとも」…「はかる」は騙す。「とも」は逆説の接続助詞。 ■よに」…決して。否定の副詞下に打ち消しの語句をともなう。 ■逢坂の関」…近江と山城の間にあった古代の関所。男女が「逢う」と掛詞。

出典

後拾遺集(巻16・雑上・939)詞書に「大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌にこまればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされて、といひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにや、といひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、とあればよみ侍りける 清少納言」

『後拾遺集』や百人秀歌では「鳥のそらねに」となっています。

決まり字

よを

解説

男の誘いを断っている歌です。断られた相手は大納言藤原行成。といっても深刻な拒絶の歌ではなく、仲のいい男女の間での、軽いたわむれの歌です。清少納言と藤原行成は宮中で冗談を言い合ったりする、仲のいい関係でした。

藤原行成が蔵人頭だった頃、中宮定子の御座所で夜更けまで女房たちと語らっていました。深夜2時頃、明日は宮中で物忌が行われるので行成は帰っていきました。

物忌みとは、ここでは占いで縁起の悪い日を避けるために一日仕事しないで自宅待機していることです。さて、いったん帰った藤原行成ですが、明け方清少納言に文を贈ってきます。

「鳥の鳴き声にもよおされて(昨夜はいそいそと帰ってしまいました)」

藤原行成は書道で知られていました。さぞやキレイな字で書いてきたことでしょう。「まあキザねえ」なんて清少納言言ったかどうか。でも、あんな夜更けに鳥の声も無いでしょうと、清少納言、こう返します。

「夜更けに鳥の声というと、函谷関の鳥の鳴きまねでしょうか」

いかにも漢文の教養が深かった清少納言らしく、司馬遷の『史記』にある孟嘗君の故事をふまえた返事です。

中国戦国時代、斉の国の孟嘗君(田文)という人が、学問にすぐれ、兵法の心得もあるということで、大国・秦の王様がスカウトしてきます。「わが国の宰相になってください」。スカウトされて、孟嘗君は家来を引き連れて、秦の国に行きますが、

この時、秦の王様の家来が、王様にいらんこと言うんですね。

「あやつは斉の国の人間です。秦の国にいいことするわけありません。
今のうちに殺してしまいましょう」

「うむ。そうだな」

こういう、殺す計画が進んでいた。「こりゃいかん」と孟嘗君は部下を引き連れて、夜中に逃げ出します。

逃げ出すんだけども、国境を越えるには函谷関の関所を越えないといけない。しかしまだ夜中で、ぴったり門は閉じている。後ろからは秦王の追っ手が迫っている。どうしよう!

そこで、孟嘗君の家来の中に鳥の鳴きまねがうまい者がいました。

コケーッ、コッコッコッ

真似すると、つられて本物の鶏たちも

コケッ、コケーッ、コッコッコッ

いっせいに鳴きだして…

函谷関の関守は

「お、もう朝か」

ギィーーー

関所を開いたので、孟嘗君一行は無事、逃げおおせることができた、という司馬遷の『史記』の中にあるお話しです。

清少納言はこの話をふまえて「深夜に鳥の声というと、函谷関の関守の話ですか」と返したわけです。

清少納言の機知に富んだ文に行成は「いいえ、逢坂の関です」と返します。逢坂の関は10番蝉丸の歌にも出てくる京都と大津の境にあった古代の関所で、男女が「逢う」…すなわち関係を持つことを暗に指しています。つまり、あなたと関係を持てなくて惜しかったですという意味がこめられています。

そこで清少納言が詠んだのがこの歌です。

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ

函谷関の関守は騙せたとしても、私はそうはいきませんよ。ずっとガードが固いですわよ、と。

漢文の知識を下地にした、当意即妙のやり取りといえます。最終的には男の誘いを拒絶しているわけですが、深刻な拒絶ではなく、仲のいい男女の間での、軽いたわむれの歌です。藤原行成はのばそうとした手をぺチンと叩かれたような形です。

清少納言と藤原行成の機知に富んだやり取りはたちまち宮中で話題になります。さすがは清少納言。教養の深い女性だと。

作者 清少納言

清少納言(966ころ-?)。平安時代中期の女流文学者。本名は不明ですが一説には「諾子(なぎこ)」だったといわれます。「清少納言」は中宮定子のもとに宮仕えする際に定子から授けられた女房名です。「清」は清原氏。「少納言」は親類の誰かが少納言だったためと思われます。

清少納言の属する清原氏は代々の和歌や漢文の家系です。父清原元輔、曽祖父清原深養父、そして清少納言自身も中古三十六歌仙に数えられ、三人とも『百人一首』に歌が採られています。

清少納言は父清原元輔が59歳の時に生まれ、年の離れた兄たちがいました。少なくとも30以上も離れているので、兄弟といってもそう深い関係は持てなかったと思われます。

父清原元輔は『後撰和歌集』の選者として「梨壷の五人」の一人に数えられ、また歌人として知られる源順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣らと交流がありました。清少納言はそういう文学的にめぐまれた空気の中、利発で明るい少女として成長していきました。

香炉峰の雪

清少納言は豊かな教養を注意深く隠すのではなく、むしろ天真爛漫に、表にあらわす女性でした。しかもそれが嫌味にならず、いかにも明るく天真爛漫なので周りからとても好かれました。

『枕草子』に見える香炉峰の雪の話(284段)は有名です。

ある雪が降り積もった日、中宮定子は清少納言におっしゃいました。「少納言、香炉峰の雪はどうであろうか」。

そこで清少納言はスッと簾をかかげます。白楽天の詩にある「香爐峰の雪は簾をかかげてみる 」をふまえたものでした。

「さすがは少納言。私の言いたいことがわかっています」

中宮定子はにっこりお笑いになりました。まわりの女房たちもさすがねえと清少納言を誉めそやしました。

悪くすると自慢とも取られかねない話ですが、『枕草子』には中宮さまに微笑まれたことも、まわりの女房たちに絶賛されたことも、天真爛漫な筆運びで描かれています。

紫式部の評価

紫式部は清少納言のこういう所がよほど気に食わなかったようで、悪し様に書いています。

「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人、さばかり賢しらだち、真名書きちらして侍るほども、よく見れば、またいと堪へぬこと多かり」

…この粘着質な内にこもった人間観察が『源氏物語』という作品を生み、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の悪霊を創り出したことはつくづく感慨深いものがあります。

しかし友人としても恋人としても、付き合うなら紫式部より清少納言のほうがずっと楽しくて気楽そうです。

清少納言の容姿

清少納言の容姿は、あまり美しいものでなかったのかもしれません。藤原定家は清少納言の絵を描かせる時に、正面からを避けて後ろ姿を描かせたという伝説があります。

『枕草子』には中宮定子が清少納言のことを「葛城の神」と冗談めかして呼んでいる場面があります(184段「宮にはじめてまゐりたるころ」)。

葛城の神とは、その昔役行者が奈良の葛城山から金峯山まで橋をかけさせた時に、土着の神である一言主神を使いましたが、一言主神は容貌が醜かったため、姿を恥じて昼は働かず夜だけ働いたと伝えられます。その醜い葛城の神に中宮定子が清少納言をなぞらえているのです。少なくとも美女ではなかったようです。

橘則光との結婚

981年頃、名門橘氏の嫡男橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し翌年則長を生みます。橘則光は『宇治拾遺物語』に盗賊三人に囲まれ逆にやつけた話が採られています。『宇治拾遺物語』がどこまで真実かはわかりませんが、武勇にすぐれていたことには間違い無いようです。しかし清少納言とはそりがあわず、ほどなく離婚します。

ついで991年頃、清少納言は父ほど年の離れた摂津守 藤原棟世(せっつのかみ ふじわらのむねよ)と再婚し後年女流歌人として知られることになる小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけます。

正暦4年(993年)頃冬、藤原道隆の娘で一条天皇に嫁いでいた中宮定子のもとに女房として仕えます。この時中宮定子から「清少納言」の女房名を授けられます。

この年中宮定子18歳。清少納言28歳くらい。清少納言はこの10歳年下の女主人・定子を『枕草子』の中で絶賛しています。

中宮さまは素晴らしい、美しい、優しい、気品がある、教養がある、太陽のように絶賛しています。読んでいるほうがこそばゆくなるほどです。

また定子も清少納言をとてもかわいがりました。

中宮定子のサロン

藤原道隆の娘定子は990年、一条天皇の中宮となりました。定子のもとには多くの女房が集まり文芸サロンの様相を呈していました。その中でも清少納言は一番の花形になっていきます。

明るく利発な清少納言はまわりからとても好かれました。藤原実方、藤原行成、源宣方といった公卿・殿上人と交流を持ち、特に藤原実方とは恋愛関係にあったとも言われます。『枕草子』には藤原実方との恋愛関係を匂わせる描写がありますが、はっきりしたことはわかりません。

定子の没落と死

しかし幸福な時代は長く続きませんでした。清少納言が定子のもとに宮仕えをはじめた2年後の995年、定子の父藤原道隆が亡くなり、かわって道隆の弟道長が台頭します。

定子と彰子
【定子と彰子】

藤原道長は長女の彰子を無理やり一条天皇の中宮とし、一人の天皇に二人のお后がいる「一帝二后」の状態となります。また定子の兄弟伊周(これちか)・隆家らを失脚させ大宰府送りにします。

それまで華やかだった定子のサロンも廃れていきます。権力者藤原道長をおそれて一人去り二人去り…しかしその中にあって、清少納言はひたすら一途に定子に仕え続けました。

そんな清少納言に、心無い噂が立ちます。敵である藤原道長方に内通していると。清少納言はこの噂によほど心を痛めたのか、宮中を退いて隠棲しています。そしてこの頃に『枕草子』を書き始めたと見られています。

清少納言は藤原道長に個人的な怨みがあるわけではなく、むしろ尊敬していました。中宮定子から「例のおもひ人」と冷やかされたこともありました。しかし道長方に立って定子と敵対しているかのように見られるのは、清少納言としては心外なことでした。

その後定子からの呼びかけに答えて清少納言はふたたび宮中に上がりますが、藤原道長からの圧力は日に日に増していきました。ついに定子は出家して尼になり、心身ともに疲れ果て、1000年、24歳の若さで没しました。

『枕草子』は中宮定子の没落や死については一切語りません。ただ定子のサロンが華やに輝いていた時代のことだけを、楽しく美しく華やかに描いています。

なので『枕草子』を数章でも読んでみると、なんて楽しいんだ、きらびやかなんだと頬がほころぶと思いますが、その楽しい宴はわずか数年の出来事で、その先には暗黒の巷が待ち受けていたことを考えると、なおさら『枕草子』という作品が感慨深く思えます。

おそらく清少納言は定子の一番輝いていた時代、そして自分にとっても一番楽しかった黄金時代だけを切り取って、後世に伝えようとしたのかもしれません。

その後の清少納言

定子の没後は宮仕えをせず、まず夫摂津守藤原棟世(ふじわらのむねよ)を頼って摂津へ下り、晩年は月輪寺(がつりんじ つきのわでら)そばの月輪山荘に隠棲したとされます。月輪寺の場所は東山と愛宕山、二つの説分かれています。