今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 左京大夫道雅

いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな (さきょうのだいぶみちまさ)

意味

今となっては思い切ってあきらめましょう。その言葉を、せめて人づてでなく直接貴女にお伝えしたしたかったのですが。そのすべさえ、もう失われてしまいました。

語句

■左京大夫 左京の行政を司る職の長官。 ■今はただ 今となってはもう、ひたすら。「今」は前斎宮当子内親王との関係がばれたこと。「ただ」は副詞。「いふ」に掛かるとする説もある。 ■思ひ絶えなむ 思い切って諦めてしまおう。「思ひ絶え」は動詞の連用形。「なむ」は完了の助動詞「ぬ」の未然形+推量の助動詞「む」。 ■とばかりを …とだけを。「と」は引用の格助詞。「ばかり」は限定の副助詞。 ■人づてならで 人を介さないで。直接。「で」は打消の接続助詞。 ■言ふよしもがな 言う方法があればなあ。「よし」は方法・手段。「もがな」は願望を意味する終助詞。

出典

後拾遺集(巻13・恋3・750)。詞書に「伊勢の斎宮(いつきのみや)わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守りめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければよみ侍りける 左京大夫道雅」。

決まり字

いまは

解説

禁断の恋を詠んだ歌です。相手は三条院第一皇女・当子内親王。時は長和5年(1016年)9月。

25歳の道雅は、三条院皇女で伊勢斎宮を下って帰京していた当子内親王と密通事件を起します。

当子内親王は13歳で斎宮に占いにより選ばれ伊勢神宮で斎宮としてお勤めでしたが、父三条院の譲位にともない、斎宮を下り都に戻っていました。この時当子17歳。最初皇后宮にすまわれましたが、後に別の御殿に移ります。

そこへ道雅が足しげく通い、当子と関係を持ったのでした。事実を知った三条院は激怒されます。しかもこれは、ただの密通事件ではありません。相手は道長の敵方にあたる中関白家の嫡男です。

当子内親王密通事件
当子内親王密通事件

三条院はただでさえ在位中から道長にいじめ抜かれていました。眼病を理由に退位を迫られもしたのです。その悲痛な思いを詠んだのが68番三条院の歌です。

もし道長にこの密通事件がバレたら?道雅をかついで中関白家を再興させようとしていると疑われるに決まっています。

「もういやじゃ!道長にいじめられるのは、まっぴらじゃ!」

三条院はすぐに道雅を勅勘(処分すること)し、密通の手引きをした乳母をも追放してしまいました。

その年は暮れて翌寛仁元年(1017年)正月。

「はあ…道雅さま、どうしていらっしゃるかしら」

道雅との逢瀬を懐かしむ当子内親王。そこへ文が届きます。

榊葉のゆふしでかけしそのかみに押しかへしてもわたる頃かな

(伊勢の斎宮でいらっしゃった頃は榊葉に白ゆうをかけて、みだりに近づくことのできない貴女でしたが、斎宮を下られてようやくお会いやすくなったのです。ところが最近はこんなふうにまた会うことを戒められて、まるで斎宮でいらっしゃつた頃の近づきがたい貴女に戻ってしまったように思えます)

道雅はまた当子の御殿の欄干に文を結びつけました。

陸奥の緒絶の橋やこれならんふみみふまずみ心惑はす

(陸奥に緒絶の橋というものがあるそうですが、私と貴女の関係はまさに緒絶の橋です。「絶える」という名の通り、貴女の文を見ても、見なくても、心が惑わされるのです)

「今はただ」も、この頃に詠まれた歌です。百人一首には珍しい、思いのたけをぶちまけたような直情的な歌です。道雅はさほど高名な歌人ではありませんでしたが、当子との恋愛関係にあった時期の歌の評価は高いです。恋が感覚を研ぎ澄ましたのでしょうか。

道雅との仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)年、病にかかり出家します。また父三条院もこの事件に心を痛め出家後、崩御しました。

作者 左京大夫道雅

左京大夫道雅、藤原道雅(992-1054)。平安時代中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。儀同三司伊周の長男。母は源重光の女。一条天皇皇后定子の甥。幼名松君。

中関白家の嫡流として祖父道隆に溺愛されて育ちます。しかし長徳元年(995年)祖父家隆は薨じ、翌96年、父伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件(長徳の変)を起こし大宰権帥に左遷されます。

中関白家が次第に没落していく中、道雅は長保6年(1004年)14歳で従五位下に序せられ、蔵人・東宮権亮などを経て左近中将、長和5年(1016年)正月従三位に至ります。

道雅は中関白家の嫡流として道長体制に対する不満からか、素行の悪さが目立ち「荒大夫」と呼ばれていました。花山法皇の皇女を殺させたり、三条天皇第一皇子敦明親王の雑色長に乱暴したり、賭博場で暴れたりと藤原実資『小右記』に記録されています。

万寿3年(1026年)には中将を罷免され右京権大夫とされますが、寛徳2年(1045年)左京大夫に復します。

『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に7首入集しています。