朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木 権中納言定頼

あさぼらけ うじのかわぎり たえだえに あらわれわたる せぜのあじろぎ (ごんちゅうなごんさだより)

意味

夜が白々と明ける頃、宇治川にかかった川霧が所々途切れ、その途切れた隙間から瀬々にわたされた網代木があちらでもこちらでも姿を現してくる。

宇治川の流れ
宇治川の流れ

宇治川の流れ
宇治川の流れ

語句

■宇治の川霧 宇治川では冬の早朝や雨の夕暮れには霜がたちこめている景色が見られ見所の一つとなっていた。 ■網代木 川にさした杭と杭の間に竹や木を張りわたしたもので、魚を捕えるための仕掛け。宇治川の風物詩であり、『更級日記』『蜻蛉日記』や多くの歌に詠まれている。

出典

千載集(巻6・冬・420)。詞書に「宇治にまかりて侍りける時よめる 中納言定頼」。「朝ぼらけ」は朝がほのぼのと明けゆく時間。「あらわれわたる」あちらでも、こちらでも。「わたる」は広い範囲に及ぶこと。

決まり字

あさぼらけ う

解説

宇治は『源氏物語』宇治十帖の舞台として知られ貴族の別荘が多かった場所です。平等院や宇治茶でも有名ですね。少し足をのばすと喜撰法師が隠棲していたという三室戸寺や、猿丸太夫ゆかりの猿丸神社があります。

作者 権中納言定頼

権中納言定頼、藤原定頼(995-1045)。平安時代中期の歌人。 父は55番大納言公任。母は昭平親王女。

小式部内侍を歌合せの時からかって、逆にやりこめられた人物です。相模とは恋愛関係になり、紫式部の娘である大弐三位とも仲がよかったといいます。モテたのです。

侍従から右少将・右中弁を経て蔵人頭に進み、右大弁として公卿に列せられます。1044年50歳位で病を得て出家。翌年51歳で没しました。歌だけでなく音楽・読経の名手でもあり、容貌も美しかったといいます。

『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』があります。

小式部内侍をからかった逸話からも見てわかるように父公任に似て軽率なところがあったようで定頼の軽率ぶりを伝える逸話がいくつか残っています。

1014年(長和三年)三条天皇が春日大社へ行幸する際に行事役を勤めますが、その際、定頼の従者と三条天皇第一皇子・敦明親王の従者が争いを起します。

怒った定頼は敦明親王の従者をさんざんに打ち据え、このために定頼は行事の役を停止させられました(『小右記』長和三年)。

1017年(寛仁元年)定頼が蔵人頭であった時、関白藤原頼通の仰せと偽って源顕定をののしり、そのため後日藤原頼通からお咎めを受け半年ほど出仕することを禁じられました(『江談抄』第二)。

こうしたことから関白藤原頼通は定頼のことを才能があって賢いが怠慢に過ぎる(定頼才能はなはだ賢し、然れども緩怠極まり無し)と評し、重く用いませんでした。

欠点の多い人物こそ良い作品を遺すということは昔からあることだったようですね。

平家物語「宇治川先陣」
↑冒頭の宇治川の描写が見事です。義経配下の二人の武将、梶原景季(かじわら かげすえ)と、佐々木高綱(ささき たかつな)は、戦場への一番乗りを競います。