心にもあらで憂き夜に長らへば 恋しかるべき夜半の月かな 三条院

こころにも あらでうきよに ながらえば こいしかるべき よわのつきかな (さんじょういん)

意味

この辛く悲しい世の中を、不本意ながらも生き延びていれば、いつか今宵の月が恋しく思えるに違いない。

語句

■心にもあらで 不本意ながら。自分は長生きしたくはないのだが。「で」は打消の接続助詞。 ■うき世に 辛くはかない世の中に。「この世に」とするものも。 ■長らへば 下二段動詞「長らふ」の未然形に接続助詞「ば」がついて、仮定条件をあらわす。生き延びているならば。不本意ながら長生きした未来の自分を想像している。 ■恋しかるべき 「べき」は推量の助動詞。「恋しいと思うに違いない」

出典

後拾遺集(巻15・雑1・860)詞書に「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるところ、月の明かりけるを御覧じて 三条院御製」

決まり字

こころに

解説

詞書にある「例ならず」とは病気であることを指します。三条院は眼病をわずらっていました。帝位を去ろうとしていた時に、冬の月を見て詠んだ歌です。

作者 三条院

三条院、三条天皇(976-1017)第67代天皇。冷泉天皇第二皇子。母は摂政藤原兼家の女超子(ちょうし)。11歳で皇太子に立てられたものの、25年間を皇太子のまま過ごしようやく天皇になったのは36歳の時です。病気がちで、しかも後年は眼病に苦しめられました。

時に左大臣藤原道長の全盛期です。道長は先帝一条天皇と長女彰子との間に生まれた皇子敦成親王をはやく即位させようとしていました。そのためには三条天皇が邪魔です。

そこで道長は三条天皇に執拗に退位をせまります。表向きの理由は三条天皇の眼病でしたが、孫を即位させたいための嫌がらせであることは明らかでした。

「あまり政務に励まれましては、御眼に障ります。
しばらく御休みになられたほうがよろしいかと」

「道長!我に退位せよと言うのか」
「いえいえ、退位などと。私は、何もそこまでは」
「無礼な…下がれッ…!」

…そんなやり取りもあったかもしれませんね。

三条天皇の眼病について逸話があります。ある時、桓算(かんざん)という宮中に仕える供奉僧の悪霊が現れ、言いました。

「わしが帝の御首の上にいつも乗っていて、左右の翼で帝の御眼をおおいかくしているのだ。羽をはばたかせると、少し見えるようになるのだ」と。

また三条天皇の治世の間、大規模な火事が二度起こり、内裏が焼けました。そのことすら道長は三条天皇の徳の至らなさのためだと攻撃材料としました。

このような不幸が重なり、三条天皇はすっかり沈み込んでしまわれました。

この歌は『栄華物語』によると、十二月の月の明るい晩、中宮妍子と語らいながら三条天皇が詠んだといいます。

「妍子、私はもう位を降りようと思う。すっかり嫌になったのだ」
「そんな…やはり父の嫌がらせが理由ですか」
「いや道長殿のことだけではない。私の目はすっかりおとろえてしまった。
月の光だけを頼りに生きていっても、この先どうなるのか…」

心にもあらで憂き夜に長らへば
恋しかるべき夜半の月かな

深い苦悩、現世への絶望感がにじみ出ています。三条天皇をおそったさまざまな不幸と、その苦悩を考えるとき、いっそう胸に迫る歌です。同じ月を詠んだ歌でも、藤原道長の「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と、何と違う月でしょうか。

中宮妍子は父道長と夫三条天皇との板ばさみとなって苦しんでおり、この歌を聞かされた時もさぞかし胸ふさがる気持ちだったことでしょう。

三条天皇はこの歌を詠まれた翌年の長和5年(1016年)年、第一皇子の敦明親王を皇太子に立てることを条件に譲位し、かわって後一条天皇が即位します。

譲位して上皇となった後も、三条院の不幸は絶えませんでした。第一皇女の当子内親王は伊勢の斎宮として仕えていましたが、三条天皇が譲位したのにともなって都へ戻ってきました。

その当子内親王と藤原道雅との間に密通の噂が立ちます。しかも密通の相手が最悪でした。

密通の相手藤原道雅は、藤原道長との競争に敗れた藤原伊周の息子です。藤原伊周といえば今は失脚したとはいえ、道長のキャリアを長年おびやかしてきた競争相手です。その子と娘が密通したとなると、道長から目をつけられかねません。

「お前は、何を考えているのだ!こんなことを知れば、
あの無礼な道長が、どんな嫌がらせをしかけてくるか!」

三条院は怒って当子内親王と藤原道雅の間を引き裂いてしまいます。

密通の手引きをした当子の乳母は追放され、当子の監視は厳しくなります。道雅が当子との関係を引き裂かれた時の歌「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」も百人一首に採られています。

当子内親王と藤原道雅の密通事件の翌月、三条院は失意のうちに崩御します。その後当子内親王は髪をおろし二度と道雅と逢うことができないまま父三条院の崩御後6年目、23歳の若さで亡くなっています。