契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊

ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あわれことしの あきもいぬめり (ふじわらのもととし)

意味

貴方様はおっしゃいましたよね。「私を頼みにせよ」と。その言葉を信じて露の命をつないできましたのに…。結局叶えられなかった。今年の秋も空しく過ぎていくんです。

語句

■契りおきし 約束しておいた。「おき」は下の「露」の縁語。「し 」は過去の助動詞「き」の連体形。 ■させもが露 「させも」はさしも草。藤原忠通が基俊に「しめじが原の」と言って言外に「頼め」を匂わせて、約束した言葉を指す。「露」はさせも草に置いた露。 ■命にて 命綱として頼りにして。 ■あはれ 感動詞。 ■いぬめり 「いぬ」は「往ぬ」。ナ変動詞の終止形。「めり」は推量の助動詞。「維摩会」の講師は秋に決定する。今年の秋も子孫光覚が講師になるのを見ることができず、空しく過ぎていくのだ、の意。

出典

千載集(巻16・雑上・1026)。詞書に「僧都光覚、維摩会の講師の請(しょう)を申しけるを、たびたび漏れにければ、法勝寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢがはらと侍りけれど、又その年も漏れにければ遣はしける 藤原基俊」。

決まり字

ちぎりお

解説

息子を取り立ててくれるよう口利きを頼んだが、それが聞き入れなかった。その、恨み言の歌です。

作者基俊の息子光覚は出家して興福寺にいました。興福寺では毎年10月に藤原氏の氏の長者の主宰により維摩会という維摩経を詠む法会が行われます。その講師(こうじ)に抜擢されるということは、僧としてたいへん名誉なことでした。

基俊は私の息子をどうかその講師に取り立ててくださいと、法会の主催者藤原忠通に口利きを頼みます。

頼まれた忠通は、「しめぢが原の」と答えます。これは清水観音の歌とされる「ただ頼めしめぢが原のさせも草われ世の中にあらんかぎりは」を踏まえます。「しめぢが原の」は、「たのめ」つまり信頼していなさいを含んでいるのです。

ところが、それは口約束だけで、今年の秋も息子は選に漏れてしまいました。なんだったんですかあの言葉は。口ばっかりじゃないですか。という歌です。

「しめぢが原」は下野国(栃木県)の歌枕で、もぐさの産地です。

作者 藤原基俊

藤原基俊(1060-1142)。右大臣藤原俊家の子。和漢の才にすぐれましたが、それを鼻にかけて他人を批判しがちなところがありました。そのせいか最終官位は従五位左衛門佐と、あまり出世しませんでした。新風を掲げた源俊頼に対し、伝統の風を重んじました。

俊成卿、基俊の弟子となる

基俊は和漢の才にすぐれましたが、人に誇って批判がちなところがあり、そのために謗りを受けることが多くありました。

まずは藤原俊成の証言を聞いてみましょう。

「あれは私が25歳の頃でした。私は基俊の弟子になろうと和泉前司道経を仲立ちにして車に相乗りして、基俊の館に向かっていたのです。基俊はその年85歳でした。しかもその夜は十五夜。基俊は興が乗ってきて、上の句を詠みました。

なかの秋とをかいつかの月を見て

それを朗々とした声で詠じるのです。私は少し考えて下の句を続けました。

君が宿にて君と明かさん

なかの秋とをかいつかの月を見て 君が宿にて君と明かさん

(仲秋の名月を見て、あなたの家で夜を明かしましょう)

そのようにつけました。今考えると何の趣向も無い当たり前すぎる歌ですが、基俊はいたく感心し、その夜の話は大いに盛り上がりました。

「私は久しく家にこもっているので今の世のことは知らぬ。さて今の世でよい歌人には誰がおろうか」

「そうですねえ。某氏、某氏、などは、なかなかのものです」

「ほうほう、わしもそう思っておった」

などと基俊は膝を叩き、扇をふるわれました。このようにして基俊とは師弟の契りを結んだのですが…歌の詠みぶりにおいては、基俊は俊頼に及びません」

以上、俊成卿の証言でした。

次に俊成卿子息、定家卿の証言から…

「父が和歌の道を習った基俊は、技巧にばかり走る最近の歌の風潮を嫌い、常に古き伝統的な歌風を求められた方です。しかし、堀川院の御世に歌の姿を昔に戻そうとされた、その志はよかったのですが…。残念ながらその当時、もう昔の歌の手本となる歌人はありませんでした。そこで仕方なく、今風に流れたのは、いかにも惜しいことでした」

雲居のたつ

基俊は人の下に立つことを嫌い、歌を詠むにも人を非難することが多くありました。ある時法勝寺殿(藤原忠通邸)で歌合が行われました。源俊頼と藤原基俊は判者をつとめました。俊頼の歌は、

口惜しや雲居隠れに住むたつも 思ふ人には見えけるものを

基俊はこの歌を見て、「たつ」を「鶴(たづ)」のことと思い、「鶴は沢に住むものです。雲に住むなんてことがあるでしょうか」と難じ、この歌を負けにしてしまいました。

俊頼はその場では反論しませんでしたが、後に判詞(判定の言葉)に書き加えました。

「これは鶴(たづ)ではない。竜(たつ)を言ったのである。かの楊公がまことの竜を見たいという心が深いゆえに、ついに雲間にまことの竜を見た故事にのっとって詠んだものである」

「ぐぬぬ」

こう言われては基俊に反論はできませんでした。知ったかぶりで人の批判を多くしていたため、失敗も多かったのです。

この童、只者にあらず

またある時、基俊が平安京の城外に外出した時、道にお堂があり、その傍に椋の木がたっており、六歳ほどの童が木にのぼって椋の実を取って食べていました。

「これ童よ、ここは、何というところじゃ」
「ここはね、やしろ堂というんだよ」
「ほう…やしろ堂とな。お社なのかお堂なのか。はっきりせんなあ。しかしそこが面白い」

基俊は口すさびに、童に向かって詠みました。

この堂は神か仏か覚束な

(このお堂は神道か仏教かよくわからない)

すると木の上の童が即座に、

ほうしみこにぞ問ふべかりける

(坊主の格好をしている巫女さんにききなさい)

すぐに下の句をつけました。

「この童、只者にあらず」

基俊はしきりに感心しました。