わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもいにまごう おきつしらなみ (ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)

意味

大海原に漕ぎ出してみると、雲と見まがうばかりに沖のほうには白波が立っていることよ。

語句

■新院 崇徳院。この歌は保延元年(1135年)4月の内裏歌合で詠まれたものと見られ、この時忠通は関白でした。■わたの原 大海原。「わた」は海。11番参議篁にも見える。■ひさかたの」は「天」「空」「月」「雲」「光」などを導く枕詞。 ■まがふ」は見まちがえる。 ■沖つ白波 「つ」は「沖の白波」の「の」と同じ格助詞で「天つ風」「中つ国」「国つ神」などと使う。

出典

詞歌集(巻10・雑下・382)。詞書に「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる 関白前太政大臣」。

決まり字

わたのはら こ

解説

いかにも太政大臣らしいおおらかで雄大な調べの歌です。

11番参議篁と86番法性寺入道前関白太政大臣は「わたのはら」までが共通で六字決まりの札です。六字目の決まり字が詠まれる前に山をかけて取ることから、「大山札」と呼ばれています。

作者 法性寺入道前関白太政大臣

法性寺入道前関白太政大臣 藤原忠通(1097-1164)平安時代後期の摂政・関白。関白藤原忠実の長男。悪左頼長の兄。近衛基実・松殿基房・九条兼実・慈円の父。母は村上源氏右大臣顕房(あきふさ)の女。太政大臣従一位。法勝寺殿。

藤原忠通
【藤原忠通】

侍従から内大臣へ進み保安二年(1121年)父忠実が白河法皇に疎まれ関白罷免にあうと鳥羽天皇の関白、同時に藤原氏の氏長者となります。以後鳥羽・崇徳・近衛・後白河四代にわたり摂政・関白を務めます。

近衛天皇の時代、近衛天皇の生母である美福門院得子の信任を得る忠通と、天皇の父鳥羽上皇の信任を得る忠実・頼長の間に対立が生じ、忠通・頼長はそれぞれの養女を近衛天皇の後宮に入れて対立を深めていきます。

藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立01
【藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立01】

ついに父忠実は忠通から藤原氏の氏の長者の証たる朱器台盤を奪い、これを次男頼長に与えます。

こうしていったんは失脚した忠通でしたが、近衛天皇が17歳で崩御すると、忠実と頼長が呪詛したためと噂が立ちます。調べてみると愛宕山の天狗像の両目に釘が打ち付けてありました。一説にはこの噂を流したのは忠通で、美福門院得子を通じて鳥羽上皇の知る所となりました。

藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立02
【藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立02】

怒った鳥羽上皇は忠実・頼長父を罷免。かわって忠通を信用するようになります。忠通は鳥羽上皇の信任のもと活躍し、後白河天皇の時代に入って関白に就任。いちやく時の人となります。

藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立02
【藤原忠通 と 藤原忠実・頼長の対立03】

一方、失脚した藤原頼長は崇徳上皇と結びつきます。 【後白河-忠通】陣営 対【崇徳-頼長】陣営の対立は日に日に深まっていきます。

後白河天皇-藤原忠通と崇徳上皇-藤原頼長の対立
【後白河天皇-藤原忠通と崇徳上皇-藤原頼長の対立】

1156年治天の君として長年権力をふるってきた鳥羽上皇が亡くなると、 【後白河-忠通】陣営 対【崇徳-頼長】陣営の対立から保元の乱が起こります。

【後白河-忠通】陣営 と【崇徳-頼長】陣営は、それぞれ源平の武士を招集し争いました。合戦は数時間で終わり、頼長は戦死。崇徳上皇は讃岐に島流しになります。そして忠通は藤原氏の氏の長者に返り咲きます。

保元の乱
【保元の乱 関係図】

しかし保元3年(1158年)の賀茂祭の際に、後白河天皇が信頼されていた院の近臣藤原信頼といざこざを起こしたことから忠通は後白河天皇より閉門に処せられ失脚します。

これを機に関白職を嫡子基実に譲り、法勝寺に隠棲。詩歌三昧の暮らしを送り六年後に薨じました。そのため法勝寺殿と称されます。家集に『田多民治集(ただみちしゅう)』があります。

能書家としても知られ法勝寺流の祖となっています。

忠通が晩年隠棲した法勝寺は白河…現在の岡崎公園のあたりにありました。近くには平安神宮や京都市動物園があります。