世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成

よのなかよ みちこそなけれ おもいいる やまのおくにも しかぞなくなる(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)

意味

世の中は辛く悲しいものだ。逃れる道など無い。一途に思いつめて山奥に逃れてみても、悲しげな鹿の声がするようだなあ。

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語句

■皇太后宮大夫…皇太后の身の回りの仕事をする役所「皇太后宮職(こうたいぐうしき)」の長官。俊成は後白河院の后忻子(きんし)に仕えました。 ■世の中よ…「よ」は詠嘆の間投助詞。 ■道こそなけれ…「こそ」は強意の係助詞。「なけれ」は形容詞「なし」の已然系で「こそ」の結び。■思ひ入る…深く考え込むこと。「山に入る」ことも掛ける。 ■山の奥にも…「山」は俗世間から離れた場所。 ■鹿ぞ鳴くなる…鹿が鳴くようだなあ。「ぞ」は強調の係助詞。「なる」は推定の助動詞「なり」の連体形で「ぞ」の結び。

出典

千載集(巻17・雑中・1151)。詞書に「述懐の百首の歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる 皇太后宮大夫俊成」。

決まり字

よのなかよ

解説

俊成27歳、保延6年(1140年)の作です。俊成が生きた時代は王朝時代の終末期で、知識人の間には無常観、末法思想が蔓延していました。

同年、俊成の友人西行が出家しています。西行は俊成より4歳年下で鳥羽上皇の北面の武士として仕えていました。しかし何を思ったか妻子を捨てて23歳で出家してしまいました。

これからの人生どう生きるべきか?若き日の俊成が、人生に迷っている様子がこの歌にはこもっています。俺も出家しようかな。俗世間を捨ててスッキリしたいな…。

しかし、どんなに世間から離れても、たとえ山奥に逃げ出しても、浮世のしがらみからは離れられない。その悲しさが、悲しげな鹿の声に重なります。

特定の場所が舞台となっている歌ではないのですが、洛北の高野川沿いや鞍馬街道をイメージするとぴったりだと思います。

俊成が実際に出家したのはこの歌よりずっと後、63歳の時でした。

皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)。藤原俊成(1114-1204)。平安末期~鎌倉初期の公卿・歌人。参議俊忠の子。母は伊予守藤原敦家の娘。

歌道の家・御子左家に生まれます。御子左家は、藤原道長の六男、藤原長家を祖とする家系です。俊成・定家父子の代で歌道の家として確立しました。

十歳で父と死別。鳥羽上皇の近臣葉室顕頼(はむろあきより)の養子となり顕広と称し54歳で父の御子左家に戻り俊成と改名。63歳で病を得て出家。法名を釈阿と名乗りました。

後白河法皇から『千載集』の編纂を命じられ、1188年完成。式子内親王に歌論書『古来風体抄(こらいふうていしょう)』を送ります。死の前年、後白河法皇から90歳の祝賀を賜るなど、歌人としての誉れをほしいままにしました。

最終官位は正三位で、舘が五条京極にあったので「五条三位(ごじょうのさんみ)」と言われました。91歳の長寿をまっとうするまで、名実ともに歌壇の中心として活躍しました。

家集に『長秋詠藻』『俊成家集』。

桐火桶をかかえてウンウンいいながら歌を作り、その様子を人にからかわれたといいます。

和歌を藤原基俊に学び、門下に式子内親王寂蓮法師、平家一門の薩摩守忠度らがいました。次男定家は百人一首を編纂したことで有名です。定家が生まれたのは俊成48歳の時です。

鶉鳴く深草の里の歌

夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里

秀歌のほまれ高い、俊成の代表作です。鶉鳴く深草の里は京都伏見にあります。この歌は『伊勢物語』百二十三段を踏まえていると思われます。

深草のある女のもとに通っていた男が、その女に飽きてきて、歌を贈りました。

年をへて 住みこし里を いでて去なば いとど深草 野とやなりなむ

長年私が貴女のもとにかよって、暮らしてきた深草の里だが、私が通わなくなったらいよいよ草深く、荒れ果ててしまうでしょうね。

男性は高貴な身分なのです。深草の女にいろいろと経済的援助もしていたかもしれません。それが、私が通わなくなったら、「深草」という名の通り、草がぼうぼうで荒れ果てるでしょうねと言っているのです。ちょっとやな感じですが、取りすがってほしいという未練も漂っているようです。

女がこれに歌を返しました。

野とならばうづらとなりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ

「おお!草深い雛の女とは思えぬ趣味の深さ!」

男は深草の女に惚れ直し、以前にも増して通うようになったという『伊勢物語』の一段です。

師弟の別れ

『平家物語』に俊成と薩摩守忠度とのエピソードが描かれています。

平家一門の中に薩摩守忠度は武芸にも歌道にも優れた人物でした。平清盛の末の弟です。寿永2年(1183年)7月、木曽義仲の軍勢が都に迫ると平家一門は安徳天皇を擁して都落ちをします。都落ちに際して忠度は歌道の師・俊成を訪ね、ふだん書き留めていた歌数十首をたくします。

俊成は後白河法皇の勅命で新しい勅撰和歌集『千載集』の編纂をすすめていました。源平の合戦がはじまったことによりその事業は中断となっていますが、戦が終われば再開するだろうから、なにとぞわが歌をよろしくお願いしますと、俊成は歌を託して、西国に落ちていきました。

そして忠教は一の谷の合戦のさなか、討ち取られました。

戦が終わり、世の中が平和になると『千載集』の編纂が再開されます。忠教が残した歌にはすぐれたものが多かったのですが、平家は朝廷にそむいた朝敵、という扱いとなったため、名前をしるすことを許されず、ただ「故郷の花」という題で読みおかれた一首だけが、「よみ人しらず」として入れられました。

さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな

(さざ浪せまる志賀の都は荒れ果ててしまい、
長等山には山桜だけが昔ながらの姿で咲いている)

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