見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず 殷富門院大輔

みせばやな おじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかわらず(いんぷもんいんのたいふ)

意味

お見せしたいものです。松島の雄島の漁師の袖でさえ、どんなに海水に濡れに濡れるからといって、色が変わってしまうまでは濡れないでしょう。それなのに私の袖は血の涙で真っ赤に染まってしまいました。

松島・雄島へ渡る渡月橋
松島・雄島へ渡る渡月橋(写真左が雄島)

語句

■見せばやな 見せたいものだなあ。「見せ」は動詞「見す」の未然形。「ばや」は願望の終助詞。「な」は詠嘆の終助詞。 ■雄島のあま 雄島は宮城県松島の島の一つ。「あま」は漁師。男女ともに用いる。 ■袖だにも 袖さえも。「だに」は「…でそえ」「せめて」といった意味の副助詞。「も」は係助詞。 ■濡れにぞ濡れし 濡れに濡れた「濡れ」は動詞「濡る」の連用形。「に」は同じ動詞を重ねて強調する時間にはさむ係助詞。「ぞ」は強意の係助詞。「し」は過去の助動詞「き」の連体形で「ぞ」の結び。

出典

千載集(巻14・恋4・886)詞書に「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院大輔」。

決まり字

みせ

解説

『千載集』では俊恵法師の次に出ているので、俊恵法師の歌林苑で歌合せした時の歌と思われます。

源重之の「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」(松島の雄島の磯で漁をする海人の袖はこそは、私の涙の袖と同じくらい濡れているのです)を踏まえた本歌取りです。

重之の歌では「雄島の海人の袖」と同程度だったのが、殷富門院大輔の歌では同程度なんてとんでもない。雄島の海人の袖なんかより、ずっと私の袖のほうが濡れているのですと、パワーアップしています。しかも血の涙です。リアルに想像すると、そうとう怖いです。

「血の涙」は中国の故事に基づく慣用句で、紀貫之にも以下の歌があります。

白玉に 見えし涙も 年経れば からくれなゐに 移ろひにけり

雄島に関する歌…

立ち帰り またも見てみん 松島や 雄島のとまや 浪にあらすな
(寄せては返す波のように、また松島に帰ってきてこの美しい景色を見たいものだ。雄島の海人の茅葺の小屋を、その時まで浪で荒らさないでおくれ)(藤原俊成・新古今)

心ある 雄島のあまの たもとかな 月やどれとは ぬれぬものから
(風流を解する雄島の漁師の袂だなあ。月が袂に映りこむようにといって濡れたわけではないのに。まるでそういう風流心で袖を濡らしているように思える(後鳥羽院宮女源師光女)

松島・雄島へ渡る渡月橋
松島・雄島へ渡る渡月橋

雄島・雲居禅師の座禅堂
雄島・雲居禅師の座禅堂

雄島の海人
雄島の海人

作者 殷富門院大輔

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。生没年不詳。1200ごろ没したと思われます。平安時代末期に活躍した歌人。従五位下藤原信成の娘。母は従四位式部大輔菅原在良の娘。後白河院第一皇女の殷富門院こと亮子(すけこ)内親王に仕えた女房です。殷富門院は式子内親王の同母姉で安徳天皇・後鳥羽院の准母(天皇の生母と同等の地位を与えられた女性)。

殷富門院大輔は俊恵法師が白川の僧坊に開いた歌林苑の一員であり、藤原定家西行寂蓮、源頼政らと交流がありました。勅撰集に63首入集。家集に『殷富門院大輔集』。