おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖 前大僧正慈円

おおけなく うきよのたみに おおうかな わがたつそまに すみぞめのそで (さきのだいそうじょうじえん)

意味

身の程もわきまえずこの憂き世の民の上に覆いかけよう。私が寄って立つこの比叡山から、墨染めの袖を民の上に覆いかけよう。

語句

■おほけなく 形容詞「おほけなし」の連用形。身分不相応に。 ■うき世 俗世。この世。 ■おほふ 墨染の袖で覆う。仏法により、天下の民を守り、いつくしむ、救いを願うという意味をこめる。 ■わが立つ杣 「杣」は杣山。材木を切り出すための山。ここでは比叡山のこと。伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を建てた時に詠んだとされる「阿耨多羅三藐三菩提の仏達わが立つ杣に冥加あらせたまへ」(『和漢朗詠集』602、『新古今和歌集』巻20・『釈教歌』1920)(あらゆる知恵をおさめた仏達よ、私の入り立つこの杣山に、ご加護を与えてください)をふまえる。 ■墨染の袖 僧侶が着る黒い衣の袖。僧侶をあらわす慣用的な表現。「墨染」と「住み初め」を掛ける、または「墨染」と「住み染め」を掛けるという説あり。「墨染めの袖」から「おほふかな」に続く倒置法。

出典

千載集(巻17・雑中・1137)。詞書に「題しらず 法印慈円」。『慈鎮和尚自歌合』や『拾玉集』にも。

決まり字

おおけ

解説

この乱れた世に、なんとか人びとを救いたい。決意表明の歌です。慈円が生きた平安末期から鎌倉初期は末法の世と言われ、地震や火事、飢饉、そして源平の合戦で世の中が乱れに乱れていました。

身の程知らず。それはわかってる。でも誰かがやらないと。誰もやらないなら、俺がやるしか無いではないか。身の程知らず。そんなノンビリしたこと言っていらるか。謙虚な中にも、強い決意を感じる、志の高い歌だと思います。

「わが立つソマ」は比叡山のこと。これは伝教大師(最澄)が比叡山に根本中堂を建立した時に詠んだとされる「阿耨多羅三藐三菩提の仏達わが立つ杣に冥加あらせたまへ」をふまえます。あらゆる知恵をおさめた仏たちよ、私が入り立つこの杣山に、ご加護をお与えください。

作者 前大僧正慈円

慈円(1155-1225)。鎌倉時代初期の天台宗の僧。歌人。諡は慈鎮(じちん)。関白藤原忠通の十一男。母は藤原仲光の女加賀局。九条兼実の同母弟。保元の乱で敗れた藤原頼長は叔父にあたります。保元の乱の前年の1155年に誕生。史論書『愚管抄』の作者としても知られます。

2歳で母を10歳で父を失い、11歳で延暦寺に入り鳥羽院の皇子覚快法親王の弟子となり道快と名乗ります。1167年天台座主明雲のもとで出家。1181年ごろ慈円と改名。

兄の九条兼実は平家滅亡後、頼朝に重く用いられ、後鳥羽天皇の摂政となります。1192年慈円は兄兼実の推挙により37歳で天台座主に就任。1203年には大僧正に任じられ天皇の御持僧となります。

しかし兄兼実の政界での立場の浮き沈みによって生涯に四度天台座主に就任するなど慈円の地位は不安定なものでした。

後鳥羽院とは歌人として信頼しあう関係であったが政治の面では対立します。一説に慈円は後鳥羽上皇の挙兵を思いとどまらせるために歴史書『愚管抄』をあらわしたとも言われます。

しかし慈円の説得むなしく後鳥羽上皇は年々討幕に心傾き、1219年、慈円は後鳥羽上皇のもとを去ります。以後、慈円は生涯四天王寺別当の地位にありました。

1221年後鳥羽院は挙兵。すぐに鎮圧されて隠岐の島に流されます。1225年、慈円は失意のうちに比叡山のふもと坂本の小島坊で没しました。没後13年目の1237年、慈朕和尚(じちんかしょう)の尊号が贈られます。

僧侶としての慈円は生涯に四度も天台座主に選ばれ、白川房(後に吉水)に源平合戦の死者を弔うための大懺法院(だいせんぽういん)を建て、吉水に熾盛光堂(しじょうこうどう)を開くなど、仏法の発展につとめました。

歌人としは後鳥羽院とお互いを認め合う仲であり、和歌所の寄人に選ばれ『新古今和歌集』には西行につぐ91首が採られている。

為家の出家を止める

慈円は当時の歌壇の中心的人物であり、同時代の歌人たちに広く影響を与えました。中でも定家の息子為家に出家を思いとどまらせた逸話が有名です。

藤原定家の子為家が若い頃、己の歌の才能に絶望していました。

(はあ…俺の歌はダメだなあ)

祖父俊成、父定家と、和歌の家柄に生まれ、何かとプレッシャーも大きかったのでしょうね。

(しかし、才能が無いものは仕方ないじゃないか。
歌の道はあきらめて、出家でもしよう)

出家を思い立った為家は、慈円を訪ねて、その旨を告げます。慈円が為家に言います。

「そなたは歳は?」
「二十五です」

「その若さではまだ、何とも言えぬであろう。
ひとまず出家のことは保留して、歌にとことん打ち込んでみてはどうじゃ」

「とことん…ですか」

「たとえば、五日の間に千の歌を作る」
「せ、千!…慈円さま、そりゃ無茶ですよ」

「無茶は無茶だが…
そこまでやってダメなら、諦めもつこう」

ところが為家の中にも、やはり歌を諦めきれない気持ちがあったんでしょうね。

千首。ようし、やってやろうじゃないかと机に向かう為家。さらさら、さらさら。筆が止まります。うーん考え込みます。さらさら、さらさら、しばらく書いて、またうーんと考えこみます。書いて考えて、書いて考えて。

だが待てよ。こんなんじゃ千首なんて無理だ。どんどん手を動かさないと。考えているヒマは無い。為家はひたすら手を動かします。いい歌だとか、悪い歌だとか、どう表現しようなど一切考えずに。

目の前を蠅が飛んでいたら、その瞬間、「蠅がどうのこうの」と、言葉で、つかまえていきます。

ダメな歌ばかりできました。日本語になっていない、我ながら意味不明な歌も。つかれてヘロヘロ文字になっており、判読不可能なものもありました。しかし、中にはいくつかはキラリと光るものがあり、

「これいいな」
「ほんとにこれ、俺が書いたのか」

為家の目が輝いてきます。

五日の後、為家は千の歌を父定家に見せます。

「為家、疲れたか?」

「疲れました。しかし…歌とはこういうものかと、
少しだけわかった気がいたします。慈円さまは、すごい方です」

以後、為家は歌の修行にはげみ、祖父俊成、父定家にはじない歌道の宗匠となりました。

『平家物語』の誕生

為家の出家を思いとどまらせるエピソードにもあらわれているように、慈円は人の才能を見出し、のばすことに熱心だったようです。

一説に、『平家物語』の誕生に慈円がかかわっているとも言われています。

慈円は、一説に源平合戦の死者の霊をなぐさめるために、大懺法院という寺院を築きました。はじめ白河に、後に吉水に移築します。そして慈円は豊かな財力を背景に、一芸に秀でた者を集めて大懺法院にすまわせていました。

信濃前司行長という者がいました。たいへんな学識があった男でしたが、ある時宮中で「七徳の舞」についての討論が行われました。

七徳の舞とは雅楽の演目のひとつで、中国唐王朝の第二代皇帝、太宗李世民をたたえた曲です。長い中国の歴史の中にはロクでも無い君主も多かったわけですが、李世民はたいへん徳の高い君主で、七種類の徳があったと讃えられています。

李世民の七つの徳をたたえたのが「七徳の舞」です。

しかし議論の中、信濃前司行長は、七つの徳のうち五つ目までは流暢に討論できたものの、六つ目、七つ目の徳をど忘れしてしまいました。

「はっ…うう…」

冷や汗が出ます。

まわりはどうしたどうしたって感じです。

とうとう思い出せず、議論はお開きになってしまいました。

「行長って男は頭がいいと聞いていたが、たいしたことねえな」
「あの、あせった顔ったらなかったな」

行長は、七つの徳のうち五つまでしか思い出せなかったということで、「五徳の冠者」という不名誉なあだ名をつけられてしまいました。

「くっ…」

プライドの高い行長は学問を捨てて出家してしまいます。

慈円が、行長のことを聞きつけます。

「ほう。そんな才能ある男がいるのか。
才能を埋もれされるのは、いかにも惜しいのう」

慈円は行長を大懺法院に呼びよせ、養うことにしました。 後に行長は『平家物語』をつくり、同じく大懺法院に養われていた 生仏(しょうふつ)なる人物に暗記させた、これが『平家物語』のはじまりだと 伝えられています。

ただしこの話は「徒然草」にしか記述が無く、信憑性は薄いですが。

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後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきけるを、心うきことにして、学問をすてて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給いけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へ語らせけり。

さて山門のことを、ことにゆゆしくかけり。

九郎判官のことは、くわしく知りて書きのせたり。蒲冠者のことは、よくは知らざりけるにや、多くのことどもをしるしもらしけり。

武士のこと、弓馬のわざは、生佛、東国のものにて、武士に問い聞きて書かせけり。

彼の生佛が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

『徒然草』226段
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人ごとに一つの癖の歌

慈円自身も、歌にはたいへん熱心でした。

ある年の八月十五日の暮れ方、慈円の弟が慈円を訪ねて比叡山に赴きます。弟は、奈良の一乗院の住職を務めていました。門にさしかかった時、召使たちが庭を掃除しながら話しているのが聞こえてきました。

「今夜は慈円さまは、どんな歌を詠むんだろうなあ」
「なにしろ慈円さまは歌好きだからね」

(あきれたものだ…)

まじめな弟は、兄に書き送ります。

「兄上は今や天台座主として三千の衆徒をまとめる立場です。それが歌ばかり詠み風流の遊びに明け暮れているとはどういうことでしょう。召使たちがこんなことを言っておりましたぞ。まして世間がどう言うでしょうか」

キッキ言ってきた弟に、慈円は歌で返しました。

皆人の一つの癖はあるぞとよ我れには許せ敷島の道

「敷島の道」は、和歌のことです。誰だって一つくらい癖はある。歌の一つくらい許せと。以後、弟はあきらめてうるさく言わなくなりました。