風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊ぞ夏のしるしなりける 従二位家隆

かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれは みそぎぞなつの しるしなりける (じゅにいいえたか)

意味

「楢の小川」と呼ばれる上賀茂神社の御手洗川では、風がそよそよと音を立てて楢の葉を吹きそよがせ、夕暮れ時になるともうすっかり秋の涼しさだ。夏の終わりの禊が行われているが、わずかにそのことだけが、暦の上ではまだ夏であることを思い出させてくれる。

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語句

■風そよぐ  風がそよそよと音を立てて吹く。 ■ならの小川 植物の「楢」(ブナ科の落葉高木)と「ならの小川」を掛ける。「ならの小川」は京都市上賀茂神社の境内を流れる御手洗川(神社に参詣する前に口をすすぎ手を洗う川)。毎年この川で六月祓(みなづきばらえ)が行なわれた。 ■みそぎ 禊ぎ。河原などで水につかって穢れや罪を清める行事。ここでは上賀茂神社で毎年六月三十日に行われた六月祓(みなづきばらえ)、夏越の禊(なごしのはらえ)のことで、上半期の穢れや罪を払った。毎年六月と十二月に禊ぎが行なわれる。 ■夏のしるしなりける 夏であることのしるしであることよ。「夏のしるし」は夏であることの証拠。「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。「ける」は詠嘆の助動詞「けり」の連体形。上の「ぞ」の結びで連体形になっている。

出典

新勅撰集(巻3・夏・192)。詞書に「寛喜元年女御御入内の屏風 正三位家隆」。

決まり字

かぜそ

ならの小川
ならの小川

ならの小川 従二位家隆の歌碑
ならの小川 従二位家隆の歌碑

解説

「楢の小川」は京都上賀茂神社の境内を流れる御手洗川です。「楢の小川」という地名に、植物の「楢」が掛けられています。

上賀茂神社にかぎらず、多くの神社では6月と12月の末に「大祓(おおはらえ)」とよばれる禊ぎが行なわれます。現在は新暦で行っている神社が多いですが、旧暦で行なっているところもあります。

「大祓(おおはらえ)」のうち、6月末に行われるものを「夏越の祓(なごしのはらえ)」といい、年の前半の罪や穢れを水に流して清めます。「茅の輪くぐり」といって茅で編んだ大きな輪をくぐって穢れを払い、「形代(かたしろ)」や「人形(ひとがた)」とよばれる紙に穢れをこすりつけて、水に流します。

その禊が今まさに、行われている…だから暦の上では夏なんです。しかし吹く風は秋の冷たさを帯びている。目の前で行われている禊だけが夏であることをしめしている。そんな歌です。

従二位家隆(1158-1237)。藤原家隆。『平家物語』にも登場する猫間中納言光隆の次男です。母は太皇太后宮亮藤原実兼の女。侍従、上総介、宮内卿を経て従二位に至り壬生二品(みぶにほん)と呼ばれました。寂蓮法師の娘を妻としていたため、寂蓮法師の紹介で藤原俊成の門下生となります。

謌僊祠
常寂光寺内 謌僊祠(藤原定家と家隆を祀る)

定家とは生涯にわたっての歌の友となります。定家と家隆は俊成門下の双璧のように見られていました。家隆は後鳥羽院に重用され、1201年、定家とともに後鳥羽院によって再興された和歌所の寄人となり、ついで『新古今和歌集』の撰者となります。

しかし後鳥羽院が隠岐に流された後は不遇でした。1235年従二位。翌36年病を機に出家。法名を仏性と名のります。晩年は難波の四天王寺に隠棲しました。

定家との友情

俊成の子・定家とは生涯にわたる歌の友となりました。定家は気難しい性格でしたから、家隆は苦労したようです。ある時、定家が家隆に訪ねます。

「家隆。今の世の歌人で一番といえるのは誰だろう」

(またこいつ、めんどくさいこと聞いてきたなあ…)

思いつつも家隆は、「さあ、どうだろうなあ」と意味ありげに言いながら、 立ち去ります。その立ち去り際に家隆は、

はらっと、

畳紙(たとうがみ…畳んだ紙)を落としていきました。

「ん?」

定家が拾い上げてみると、

明けばまた秋の半ばも過ぎぬべし
かたぶく月の惜しきのみかは

(この十五夜が過ぎたら秋も半ば過ぎたことになる。私は傾く月が惜しいのか。それだけではない。過ぎ行く秋、そのものが惜しいのだ)

「これは…俺の歌だ。やっぱり俺が一番てことか。
さすがわが友。わかっている!」

こんなふうに、家隆は気難しくプライドの高い定家ともうまくやっていました。つかれたと思います。気苦労が絶えなかったと思います。

定家も家隆をとても重く扱い、勅撰集を編纂する時は家隆の歌を多く採用しました。

後鳥羽院が「誰に歌を学んだらよいだろう」と尋ねられた時、定家は答えます。

「家隆がよろしいです。あれはいにしえの柿本人麻呂にも比すべき歌人です」

定家も調子がいいですね。たぶん定家みたいな気難しい男は、あまり友達もいなかったと思います。
誰も定家に近づかない中、自分に親しくしてくれる。 文句言わない。しかもこいつは、俺の歌の才能をわかってる。

心の友よ!となるわけです。それを、わかっていながら、 笑顔で受け止める藤原家隆。なんと大人であることか!

後鳥羽院への配慮

家隆も定家も、後鳥羽上皇に重く用いられましたが、後鳥羽院が隠岐に流された後の二人の対応はまったく違っていました。

家隆はまめまめしく上皇さまに文を送りました。

定家は、しらーんぷりです。18年間、一通の文も送りませんでした。

「落ち目になると、人の本性というものが見えるわ。
家隆の人柄のなんと優しいこと。それに比べて定家。
あれほど朕が目をかけてやったのに」

後鳥羽上皇も、隠岐の島でつぶやいていらしたんじゃないでしょうか。

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