人も愛し人も恨めしあじきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は 後鳥羽院

ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうゆえに ものおもうみは (ごとばいん)

意味

人を愛しいとも、恨めしいとも思うのだ。面白くないものと天下を思うが故に、物思いに沈む我が身には。

語句

■人もをし人もうらめし 「人も…人も…」という並列の文脈。「をし」は「愛し」で、愛しい。「うらめし」は恨めしい。「人には良い所と悪い所がある」、「人は時に良く、時に悪い」「世の中には良い人も悪い人もいる」という解釈がある。 ■あぢきなく つまらなく、面白くなく。形容詞「あぢきなし」の連用形。すぐ下の「世を思ふ」にかかる。 ■世を思ふ 「世」は天下。為政者としての責任の重さから「あぢきなく」と言ったか? ■もの思ふ身は …「身」は私自身。「は」は強意の係助詞。意味的にはこの後、初句、二句に続く。倒置法。

出典

続後撰集(巻17・雑中・1202)。詞書に「題知らず 後鳥羽院御製」。『後鳥羽院御集』にも。

決まり字

ひとも

解説

作者 後鳥羽院

後鳥羽院。後鳥羽上皇(1180-1239)。第82代天皇。在位1183-98年。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。源平合戦最中の治承4年(1180年)に生まれ、1183年、平家一門が連れ去った安徳天皇にかわって4歳で祖父後白河法皇の勅命により践祚されました。

当時は後白河法皇が独裁的に朝廷の権力をふるっており、後鳥羽天皇践祚後も引き続き後白河法皇が院政を行いました。しかし1192年、後白河法皇が崩御。かわって後白河法皇と対立していた関白九条兼実が権力を握ります。

旧後白河派の源通親らは九条兼実に反発。源通親は九条兼実を策謀によって失脚させるとかわって権力を握ります。

1198年、後鳥羽上皇は源通親の祖孫にあたる為仁親王に位を譲り、土御門天皇とし、みずからは上皇として院政を開始しました。

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

1202年、源通親が没して後はいよいよ専制的となり、以後1221年まで土御門、順徳、仲恭と三代にわたって院政を行い治天の君として君臨しました。

また白河法皇が設置した北面の武士にくわえて西面の武士を創設し、朝廷の軍事力増強につとめました。

上皇は源実朝の妻として、生母の弟にあたる坊門信清の娘を鎌倉に下すなど、幕府との共存にはじめは務めます。しかし実朝は実権を持たない北条氏の操り人形にすぎませんでした。北条氏主体の鎌倉幕府はしばしば上皇と対立するようになり、溝を深めていきます。

「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」の歌には、上皇の幕府への不満があらわれています。また上皇は最勝四天王院を建立しましたが、一説には幕府を呪詛するためと言われています。

1219年、実朝が甥の公卿に暗殺されると、鎌倉は上皇の皇子を将軍として下してほしいと乞いますが、上皇はこれを拒絶。妥協案として摂関家の九条頼経を第四代将軍として鎌倉に下すことになりますが、上皇はこれにも不満でした。

さらに上皇は寵愛していた伊賀局(いがのつぼね)の領地の地頭を廃止するよう鎌倉に要求して拒否されています。

こうして上皇と鎌倉との関係は悪化していきます。1221年、ついに上皇は息子の順徳上皇らとはかって挙兵。1221年承久の乱が勃発しました。しかし動きの鈍い朝廷軍に対して幕府軍は迅速に兵を動かし、わずか1か月で京都を占領。上皇は鳥羽殿に幽閉後、出家させられ、隠岐の島へ流されます。法名は金剛理、または良然。

上皇は隠岐の島に18年をすごし、二度と本土に戻れないまま、1239年崩御しました。享年60。

上皇は文化の面では、和歌に秀で和歌所を再建します。藤原定家に『新古今和歌集』の編纂を命じ、みずからも編纂事業に加わります。「千五百番歌合」「春日社歌合」など多くの歌合を主催。

上皇はまた武芸にも熱心で流鏑馬・競馬・相撲・狩猟をたしなみ、刀剣を制作・鑑定し、蹴鞠や和歌、囲碁、双六など、多方面に能力を発揮しました。

水無瀬(大阪府三島郡島本町)や宇治(京都府宇治市)に華麗な離宮を営み、熊野への参詣は約30回に及びました。家集『後鳥羽院御集』。日記に『後鳥羽院宸記』『後鳥羽院御口伝』。