長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき 藤原清輔朝臣

ながらえば またこのごろや しのばれん うしとみしよぞ いまはこいしき (ふじわらのきよすけあそん)

意味

生きていれば、今の辛い毎日もいつか愛しく思える日が来るのだろうか。ちょうど、かつて辛いと思っていた日々を現在では懐かしく思っているように。

語句

■ながらへば 「ながらへ」は下二段動詞「ながらふ」の未然形。「ば」は仮定条件の接続助詞。 ■このごろやしのばれむ 今現在が(未来において)なつかしく偲ばれるだろう。「このごろ」は今現在。「や」は疑問の係助詞。「しのぶ」は「偲ぶ」。なつかしく思う。「れ」は自発の助動詞「る」の未然形。「む」は推量の助動詞「む」の 連体形で係助詞「や」の結び。

出典

新古今集(巻18・雑下・1873)。詞書に「題しらず 清輔朝臣」。『清輔集』にも。こちらの詞書に「いにしへ思ひ出でられけるころ、三条内大臣いまだ中将にておはしける時、つかはしける」。

決まり字

ながら

解説

『続詞花集』 勅撰集に入らず

清輔は堀川・鳥羽・崇徳三代に仕え、ことに歌人としての評価が高かったので、崇徳院より『詞花集』の編纂を命じられました。その後、二条院より『続詞花集(しょくしかしゅう)』の編纂を命じられますが、完成を待たずに二条院が崩御されたので、『続詞花集』は勅撰和歌集には入れられませんでした。この『続詞花集』の特徴として、俳諧の歌(滑稽な歌)を「戯笑歌(ぎしょうのうた)」として、部立(ぶたて。歌を内容によって分類したもの)を立てたことでした。戯笑歌という部立ては、他の勅撰和歌集には無いものでした。

尚歯会を主催

清輔は長年の望みとおり、長生きしている年配者を集めて自身もその中に加わって尚歯会(しょうしかい)という会を発足しました。場所は白川の宝荘厳院で行われました。

尚歯とは老人を尊ぶということで、「敬老」と同じです。『白氏文集』にもある言葉です。

道因法師はじめ、多くの参加者がありました。「暮春白川尚歯会和歌」と題して、

散る花は後の春とも待たれけり またも来まじき我が盛りかも 清輔

(桜は散ってもまた来年の春を待てばよいが、私の盛りは二度と来ない。だから今を思い切り楽しもう)

7人の老人を正会員とし、彼らに相伴する人々がいました。その中に顕昭法師は清輔の義理の弟です。国学に詳しく、古今集の注釈や歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』を著し、その名は高く後世まで伝わりました。

顕昭は清輔亡きあと、俊成・定家らの御子左家と対立する歌の家系・六条藤家の代表人物となっていきます。

独鈷鎌首の争い

1193年藤原良経邸で行われた六百番歌合という大規模な歌合せの席で、寂蓮と顕昭との間で議論が起こります。

顕昭が独鈷をふるって、

「納得できませんな。寂蓮殿」

熱弁をふるうと、寂蓮は鎌首をもたげて

「なんですと!判定に文句があるんですか!」

と、反論します。

顕昭が独鈷をふるって熱弁をふるうと、
寂蓮は鎌首をもたげて反論します。

顕昭が独鈷をふるって熱弁をふるうと、
寂蓮は鎌首をもたげて反論します…

見ていた女房たちは「またいつもの独鈷鎌首じゃ」と笑いあいました。

「独鈷鎌首の争い」という言葉はここから来ています。

鴨長明による俊成・清輔の人物評

鴨長明の『無名抄』には、俊成も清輔も、それぞれ歌の判(判定)には偏りがあると書かれています。

そのことを顕昭が論じて言うには、最近の和歌の判定は、俊成と清輔と、どちらを左とも右とも決めづらい。

しかしこの両人はどちらも偏りのある判者ながら、その偏りのあるあらわれ方は、まったく違っている。

俊成卿の場合、「私もかたよりがあるほうだから」とわきまえていて、人が非難してきた時も強くは争わない。

対して清輔は、外から見ればまったく偏りの無い公平な判者のような顔で、偏りがあるなど少しも思われない。

しかし人が少しでも判の詞(判定)に不満を示すと、何を言いますか!私の判は正しい。どこに文句がありますか。どこに。えっ?ええ?」

と、ムキになって食ってかかるので、後には誰もが清輔の性質を知り、文句があっても言わなくなりました。