難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花 王仁博士

なにわづにさくやこのはなふゆごもりいまをはるべとさくやこのはな(わにはかせ)

意味

難波津にこの花が咲いたよ。冬の間はこもっていた花が、 いよいよ春だと、この花が咲いたよ

出典

古今集「仮名序」

解説

王仁博士の碑 上野公園
王仁博士の碑 上野公園

王仁博士は朝鮮(百済)からの渡来人で、
日本に論語などを伝えたとされる、
半ば伝説的な人物です。

百人一首の序歌…いわゆる「難波津の歌」の
作者とされます(『古今和歌集』序文による)。

競技百人一首では、競技のはじめに「序歌」という百首のいずれにも属さない特別枠の歌を詠みます。

地方によって何の歌を詠むかは色々ありますが、
競技百人一首の段位や公式ルールを仕切っている
全日本かるた協会は、この【難波津の歌】を
序歌に定めています。

『古今和歌集』の仮名序(序文)に王仁博士作として
紹介されている歌です。

古今和歌集の写本によって下の句は
「今は春べと」「今を春べと」 二つがあり、
全日本かるた協会では「今を春べと」のほうを採用しています。
「今は」だと63番「今はただ…」の歌とダブるからです。

【難波津の歌】と呼ばれるこの歌は、
第16代仁徳天皇が即位される時に、
渡来人の王仁博士(わにはかせ)が、
梅の花に添えて歌ったとされる歌です。

王仁博士の碑 上野公園
王仁博士の碑 上野公園

陛下の治世が末永く続きますようにという願いをこめた、
祝福の歌です。

なぜ序歌があるのか?

競技かるたの詠みは、「4-3-1-5方式」といって詠み方の時間配分がおおよそ決められています。

「下の句の余韻前を4秒台」 「下の句の余韻を3秒」 「次の歌を詠むまでの間が1秒」 「上の句が5秒台」

▼図にすると、こんな感じです▼

つまり歌の出だしのタイミングは、「前の歌の余韻が終わってから1秒後」と、前の歌が基準になっているのです。

なので一首目の歌を詠む時も「せーの、」で詠み始めるわけにはいかず、タイミングをはかるために「一首前の歌」が必要となります。そのために序歌を置いているのです。(儀式的な意味合いもあるのかもしれませんが)

「今を春べと」と「今は春べと」

序歌について、「『今は春べと』の間違いではないか?」とのご意見をいただきました。実は、間違いではありません。

「難波津の歌」の出展は『古今和歌集』の序文ですが、古今和歌集の写本によって「今は春べと」と「今を春べと」のパターンがあるのです。そして百人一首の公式ルールを定めている全日本かるた協会では「今を春べと」を序歌と定めています。

これは、63番「今はただ思ひたえなむとばかりを」と出だしが重なることを避けるためです。

王仁博士(わにはかせ)。生没年未詳。朝鮮(百済)からの渡来人で、日本に論語などを伝えたとされる、半ば伝説的な人物です。

『日本書紀』の応神天皇十五年八月条に記述があります。百済王が日本に阿直岐(あちき)を遣わして馬二匹を献上してきたが、阿直岐は経典をよく読みました。そこで皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ。応神天皇の皇子)が尋ねます。

「お前以上の学者はいるか」
「ならば王仁という者がいます。それはすぐれた人物です」

そこで荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)の二人を百済に遣わし、王仁博士を日本に招きました。翌年春、王仁博士は来朝します。そこで太子菟道稚郎子は王仁博士を師とし、あらゆる学問に通じるようになった、この王仁博士は書首(ふみのおびと、西文氏)らの始祖であると記されています。

また『古事記』応神天皇段では王仁を和邇吉師(わにきし)と記し、『論語』十巻と『千字文』一巻を日本に献上したと書かれています。

一族は河内の古市(大坂府羽曳野(はびき)市)に居住し、文字の開発・不朽に貢献しました。

上野公園の彰義隊の墓の横に、ひっそりと王仁博士の碑が建っています。西郷隆盛像の、すぐ横です。

仁徳天皇

仁徳天皇は堺市にある「仁徳天皇陵」で有名ですね。歴史上まれに見るほど、徳のある君主だったこと、その治世は87年間も治世が続いたことが『日本書紀』に記されています。

「かまどの煙」の逸話が有名です。

ある時仁徳天皇が高台から、民の家々を見ておられました。
しかし、かまどから煙が上がっている家がありませんでした。
民が貧しい証拠です。

「これは租税が高すぎるのじゃ」

仁徳天皇は、三年間租税の徴収をやめ、
労役を課すことをやめ、その間は宮殿の茅葺も葺きなおさず、
雨もりがしてもその時はたらいで受けて、しのがれました。

3年後、ふたたび高台にのぼった仁徳天皇は、
家々から元気よく煙が立ち上っているのを目にされます。

「これでよし」

こうして三年ぶりに租税と労役をもとに戻しました。
このように徳の高い天皇のもとで国は栄えたということです。
よって仁徳天皇のことを「聖帝(ひじりのみかど)」と言います。

「難波津の歌」は、そんな徳の高い仁徳天皇の御世が
末永く続きますようにと、祝福をこめた寿ぎの歌です。
『古今和歌集』序文に王仁博士の歌として紹介されています。

ちなみに仁徳天皇ことオオサザキは弟のウジノワキイラツコと
帝位を譲り合った末に即位したと言われています。

兄と弟で、互いに帝位を譲り合ったのです。こういった
極端な謙譲の精神には『論語』の影響が見られます。

『論語』には古代の理想的な王・堯(ぎょう)と舜(しゅん)が
帝位を譲り合ったさまが、繰り返し美談として語られています。

その『論語』を王仁博士が伝え、『論語』の影響で
オオサザキとウジノワキイラツコが帝位を譲り合い、
仁徳天皇が即位した。そしてまれに見るよい政治を行った。

そう考えると、王仁博士の果たした役割は大きかったと
言えそうです。

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