春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山 持統天皇
はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あまのかぐやま (じとうてんのう)
もう春が過ぎて夏が来たようだ。天の香具山では真っ白な衣を干す景色が見られるというが、なるほど衣替えの季節で、白い衣がはためいている。
天の香具山
天の香具山
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語句
■きにけらし 「来にけるらし」の変化した形。「らし」は推量。「夏が来たようだ」の意味。 ■白妙 カジやコウゾの繊維で縫った白い布。「衣」の枕詞。 ■干すてふ 「干すという」。「てふ」は「といふ」がつづまった形。 ■「天の香具山 奈良県橿原市の山。畝傍山、耳成山と並び大和三山の一つ。奈良盆地の南に位置し、持統天皇が政治を取り仕切った藤原京からは東の方角にある。天から降りてきたという伝説があるため頭に「天の」とつく。『新古今集』や『百人一首』では「アマノカグヤマ」と読むが、万葉集では「アメノカグヤマ」と読む。 『古事記』の倭建命(ヤマトタケルノミコト)の歌に「比佐迦多能 阿阿米能迦具夜麻(ヒサカタノ アメノカグヤマ)」とあり、大昔は「アメノ」と読んだと考えられるため。
出典
新古今集・巻3・夏(175)「題しらず 持統天皇御製」。原歌は万葉集・巻1(28)「春過ぎて夏来るたるらし白妙の衣ほしたり天のかぐ山」。原歌では「衣干したり」つまり「干している」
決まり字
はるす
【天の香具山】
ある晴れた初夏の日に、女帝持統天皇が藤原宮から景色を眺められると、
東にある香具山に白い衣がたくさん干してありました。
「まあ…春が過ぎて、夏が来たのだわ」。
万葉集の原歌はそんな内容です。
素直に、雄大に、目の前の景色の実感・感動を歌っています。
これが新古今和歌集版になると、やや言葉も意味も変わります。
「春過ぎて夏きにけらし」…春が過ぎて夏が来たのかしら…。
持統天皇の万葉集における素直な感想が薄められ、どことなく、
ふにゃふにゃした言い方になっています。
そして「衣干すてふ」…衣を干すという、衣を干すと話にきいている、
衣を干すというところの。
実際に目の前に衣が干してあるのを見るのではなく、
話の中に聞いた、伝聞になっています。
生の感動は、薄れています。
なぜ言葉ばかりか歌の内容まで変わってしまったのでしょうか?
一つは万葉仮名の問題があるようです。
万葉仮名…漢字だけを用いた万葉集の歌の書き方は、
平安時代にはすでに読みにくくなっており、
一つの歌にいくつもの読み方が存在したようです。
持統天皇の歌は万葉仮名では
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山
と書きます。
これでは、いかにも読むのに苦しみそうですね。
複数の説が出てくるわけです。
その複数の説のうちの一つが、
『新古今和歌集』版の読みだったと思われます。
また平安人にとっては奈良の香具山は
すっかり遠い神話や伝説の世界の山になっていました。
その意味でも薄霞がかかったような
曖昧な詠み方になっているのかもしれません。
また断定を避けみやびを重んじるのが
『新古今』時代の好みでもあったのでしょう。
こうした諸々の事情から『万葉集』の実感・感動は薄められ、
『新古今和歌集』では別の歌と言ってもいいほど
内容も変わってしまったのです。
少し新古今和歌集版を擁護すると、
言葉の優雅さ、響きの美しさは増しています。
こういうのが、王朝人の好みだったのでしょう。
ぜひ声に出して味わってみてください。
気持ちよさが実感できるはずです。
天の香具山は奈良県橿原市にある大和三山の一つで、
畝傍山、耳成山とともに大和三山を形成します。
大和三山はほぼ三角形のそれぞれの頂点に位置し、
大和三山の中央に藤原京がありました。
天の香具山は伝説には天から降りてきた山といわれ、
そのため頭に「天の」がつきます。
『新古今和歌集』の時代は「アマノカグヤマ」ですが、
万葉の昔は「アメノカグヤマ」と読みれていたと考えられています。
香具山で有名なことに、アマテラスオオミカミが天の岩屋にこもった時に、
香具山で採れた榊を御幣にささげて、シャンシャンとふって、
アマテラスオオミカミを岩屋から誘い出そうとした神話があります。
また舒明天皇の「国見の歌」も有名です。
34代舒明天皇は持統天皇の祖父にあたります。
ある時舒明天皇が香具山に登り、四方を眺めて
歌を詠まれました。
天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)
大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天(あめ)の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原(くにはら)は煙(けぶり)立ち立つ
海原(うなはら)は かまめ立ち立つ
うまし国そ あきづ島 大和の国は
当時、天皇が高台や山の上にのぼって四方を見渡す「国見」は、
宗教上・政治上の重要な儀式でした。
また香具山山頂からは正面に畝傍山が見えます。
畝傍山のふもとには初代神武天皇が即位された橿原宮の跡があり、
現在ここには広大な橿原神宮があります。
もしかしたら舒明天皇も初代神武天皇の業績に
思いをはせて、香具山山頂から畝傍山をごらんになったかもしれませんね。
こうした伝説や歴史をふまえて持統天皇の歌を詠む時、
さらにいっそうの感動がこみ上げてきます。
作者 持統天皇
第41代持統天皇(645-702)は大化の改新の年に中大兄皇子後の天智天皇の第二皇女として生まれます。母は遠智娘(おちのいらつめ)。名はウ野讃良皇女(うののさららのひめみこ)。13歳の時叔父にあたる大海人皇子に嫁ぎました。
父天智天皇の崩御後、大海人皇子と大友皇子との対立から672年壬申の乱が勃発すると、讃良は幼い草壁皇子を連れて海人皇子に従いました。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し大津から飛鳥へ遷都。686年夫天武天皇が崩御すると、讃良は息子草壁皇子を後継者に定め、皇后として称制(即位せずに政治を執ること)を行います。
686年、実子草壁皇子のライバルにあたる大津皇子が謀反のうたがいを受け翌日に処刑される「大津皇子の変」が起こります。優秀で人望あつい大津皇子は実子草壁が天皇として即位する障害になるということで、この「大津皇子の変」は讃良の陰謀だという説があります。
689年、草壁皇子が即位を待たず28歳で亡くなります。翌690年、讃良は自ら第41代持統天皇として即位。694年日本初の条坊制都市藤原京に都を遷します。在位7年。
697年、孫の軽皇子(かるのみこ)に譲位し文武(もんむ)天皇として即位させます。その後も史上初の太上天皇(上皇)として文武天皇を補佐。忍壁皇子(おさかべのおうじ)、藤原不比等(ふじわらのふひと)らに「大宝律令」(701年)を作らせ、天皇を中心とした中央集権国家の基礎を築きました。「日本書紀」は持統天皇が軽皇子に位をゆずるところで終わっています。