忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで 平兼盛
しのぶれど いろにいでにけり わがこいは ものやおもうと ひとのとうまで (たいらのかねもり)
意味
人に知られないようにずっと思いを秘めてこらえてきたが、とうとう気持ちが表に出てしまったようだ。「何か思い悩んでいるんですか」と人から尋ねられるほどに。
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語句
■色にいでにけり 恋心が態度に出てしまったなあ。「色」は顔色。態度。「けり」は詠嘆の助動詞。 ■ものや思ふと 「もの思ふ」は恋の物思いにふけること。「や」は疑問の係助詞。 ■人の問ふまで 周囲の人が尋ねるほど。意味上「色に出にけり」に続く倒置法。「まで」は程度。
出典
拾遺集(巻11・恋1・622)。詞書に「天暦の御時(おおんとき)の歌合 平兼盛」。
決まり字
しの
解説
恋愛感情をずっと隠してきたつもりでいたが、「どうしたんですか何か物思いでも」と人に聞かれるほど、恋愛感情は面にあらわれてしまった。特に技巧も無く意味もわかりやすく、誰もが共感できるためか人気の高い歌です。
詞書にある「天暦」は元号ではなく、村上天皇の治世を指します。この時の元号は「天徳」です。
歌合とは宮中で歌人を左右二組に分け、歌の優劣を競った遊びです。歌だけでなく衣装や香の香りにも凝った絢爛豪華な宴でした。
中にも960年(天徳四年)三月三十日に村上天皇が主催したこの「天徳内裏歌合」は最も華やかな宴として後々まで語り草になっています。
一ヶ月前の三月はじめに霞、鶯 、柳、桜…恋など歌の題(歌題)が発表されました。判者に左大臣藤原実頼、歌を詠み上げる講師(こうじ)には左方源延光(みなもとののぶみつ)、右方源博雅(みなもとのひろまさ)が任命されました。
一ヶ月の間、左右双方の陣営は戦略を練り、衣装や演出にも工夫をこらします。 そして当日。
清涼殿には今をときめく歌人たちが左右に分かれて集い、かがやくばかりの華やかさの中、一番「霞」から歌合せが始まります。
歌合せは夜を徹して続けられ、20番「恋」の題詠において右方 平兼盛が詠んだのがこの歌です。
忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで
一方、左方の壬生忠見はこう詠みました。次の百人一首41番としても採られている歌です。
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
「む…これは…」
判者藤原実頼は迷ってしまい、補佐役の源高明に判定を譲ります。 しかし譲られた源高明も
「たしかに…甲乙つけがたい」
同じく判定に迷ってしまいました。その時、御簾の向こうから村上天皇のお声が低く響きます。
「しのぶれど…いろにいでにけり…」
そこで藤原実頼は判定を下しました。
「勝者、平兼盛殿」
右方からはよろこびの声が上がります。
「やった!この日のために精進してきた甲斐があった!」
平兼盛は衣冠束帯姿で正装していましたが、その場で立ち上がり 他の勝負には目もくれず、舞踊りながら御前を退出したといいます。
一方、敗れたほうの壬生忠見は、官位も低く家も貧しく、 この歌合せに出世の望みをかけていました。
「もう、おしまいだ…」
最後の望みも絶たれたとあって、ガックリと肩を落とし、その後 不食の病(食事が出来なくなる)にかかり亡くなったとあります。しかしもっと後になって詠んだ歌も残っており信憑性は薄いです。
平兼盛(生年未詳~990年)。平安時代中期の歌人。父は15番光孝天皇の曾孫篤行王(あつゆきおう)。はじめは兼盛王と名乗り、天暦4年(950年)年臣籍に下って「平」の姓を賜ります。
越前権守・山城介・大監物などを経て、従五位上駿河守にいたります。官位は低かったものの歌人としての誉は高く、三十六歌仙の一人に数えられ『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首を入集されています。家集『兼盛集』があります。
歌合せで壬生忠見と対決したエピソードが最も有名で、その時の歌がこの「しのぶれど」です。