わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 二条院讃岐

わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし (にじょういんのさぬき)

意味

私の袖は涙に濡れて、まるで引き潮時にも海底深く沈んで姿を見せない沖の石のようです。貴方はそんなこと知らないでしょうけど、私の袖は涙に乾く間もないのですよ。

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語句

■潮干に見えぬ 「潮干」は引き潮の状態。「見えぬ」は動詞「見ゆ」の未然形+否定の助動詞「ず」の連体形。 ■沖の石 沖のほうにあって、海底深く沈んでいる石。固有名詞とする説もある。「潮干に見えぬ沖の石の」が次の「人こそ知らね乾く間もなし」を導く序詞。 ■人こそ知らね あなたは知らないでしょうけど。「こそ」は強意の係助詞。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然系で「こそ」の結び。以下に逆説的につながる。 ■かわく間もなし 初句「わが袖は」からつながる。「も」は強意の係助詞。

出典

千載集(巻12・恋2・760)。詞書に「寄石恋(いしによするこひ)といへる心を 二条院讃岐」。『二条院讃岐集』には初句が「わが恋は」。末句を「乾く間ぞなき」とする本もあり。

決まり字

わがそ

解説

「石に寄する恋」という珍しい題で詠まれた歌です。恋愛感情を、石を例えとして表現したのです。

たとえがダイナミックです。涙に濡れる袖のたとえとして海底深く沈んだ沖の石とは、濡れてるというより、沈んでいます。どれだけ泣いたんでしょうか。

和泉式部の「わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾く間もなし」を本歌取りしているという説もありますが、和泉式部の本歌より海の情景が具体的に浮かび、たとえもダイナミックです。

二条院讃岐(にじょういんのさぬき 1141-1217?)。平安末期~鎌倉初期の女流歌人。鵺退治で有名な源頼政の娘です。母は源忠清の娘。はじめ二条天皇に仕え、天皇崩御後、陸奥守などを務めた藤原重頼と結婚。重光・有頼を出産。

1180年(治承4年)父頼政と兄仲綱が後白河法皇第三皇子以仁王にこたえて打倒平家の旗揚げをしますが、宇治川の合戦で平家方に敗れ戦死します。

その後1190年頃、後鳥羽院の中宮任子(にんし 宜秋門院)に女房として仕えます。1196年出家。この歌はよほど好評だったらしく、以後「沖の石の讃岐」と呼ばれました。

平家物語「鵺」
↑源頼政の鵺退治が描かれます。「歌」が深く関係した話です。

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