み吉野は山もかすみて白雪の ふりにし里に春はきにけり 藤原良経
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みよしのは やまもかすみて しらゆきの ふりにしさとに はるはきにけり (ふじわらのよしつね)
意味
吉野では山が霞んで、ついこの前まで
白い雪が降っていた山里に春が来たんだなあ。
『新古今和歌集』冒頭をかざる歌です。
み吉野は「吉野」を美しく言った美称です。
「旧りにし里」は、吉野のことで奈良時代以前、
吉野の宮滝付近に天皇の離宮がありました。
壬申の乱の直前、大海人皇子が吉野離宮にこもり
再起をはかっていたことは有名ですね。
平安時代以降はすたれてしまったので
吉野の地を「ふるさと」と言いました。
み吉野は山もかすみて白雪の
ふりにし里に春はきにけり
素直で、のびのびした読みっぷりです。
しかし、三句目の「白雪の」に注目してください。
「み吉野は山もかすみて」ここまで春の話で、
いきなり「白雪の」が出てくる。
「あれっ?」と思わないでしょうか?
「ん?春の歌じゃなかったの?」
「なんで春なのに雪が出てくるの?」
歌を聴いている人は、一瞬、意外に思うわけです。
そこですかさず、
「ふりにし里に春は来にけり」
こう詠みきって、キレイにまとめる!
なるほど、かつて白雪がふっていた山里に、
今、春が来た。そういう歌かと、
全体の構造がわかるわけです。
文字で書かれた歌は一目で全体が見渡せますが、
もともと歌は声に出して詠み上げるものでした。
なので声に出されるまで、次の言葉がわかりません。
歌の全体がわかりません。
そのために、詠み手と、聴き手の間で一瞬、
心理的なかけひきが生じます。
ここが歌の面白いところです。
言ってみれば漫画のページをめくる直前のコマで
「誰だッ!?」と主人公が振り返って、
ページをめくるとバアアアーーンと敵が登場するといった
演出に通ずるものです。
そういうことを注意しながら、もう一度聴いてみてください。
み吉野は山もかすみて白雪の
ふりにし里に春はきにけり
なぜ枕詞があるのか?
たとえば柿本人麻呂の歌、
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜を一人かもねむ
山鳥の尾がたらーんと垂れ下がったような長い長い夜を、
一人寝るのかなあ。
一人寝の侘しさを歌った有名な歌ですが、
「あしびきの」が「山」にかかる枕詞です。
枕詞は意味が無い、ナンセンスな言葉だなどと言われますが、
それでも言葉ですから、もとは意味があったはずなんです。
「あしびきの」なら、足をひきずりひきずり山道を
歩いている図があったかもしれません。
しかし、最初の意味やイメージは次第にうしなわれていき、
単に「山」という言葉を導く形式的な言葉になった。
これが枕詞です。
なぜ枕詞があるのか?
不思議じゃないですか?
だって五・七・五・七・七。
三十一文字しかないんです。
余計なこと言ってる場合じゃないんです。
成約が多いです。
そこでなぜ、省略可能な、
はぶいても意味が通じる
枕詞なんてものを入れるのか?
これも、歌が文字で書かれる以前に声に出して詠まれるものだった
ことを考えると、すぐわかります。
詠み手が、
「あしびきの~」
と詠むと、聴き手は
(おっ、山の歌だな)
一瞬、心構えができるわけです。
そこで期待どおり、山の歌を詠むのか。
この人麻呂の歌のように「山鳥」の歌にして
「ちょっと変化球で来たな」と思わせるのか。
詠み手と聴き手のかけひき。
これが、歌の面白いところです。
春の歌と冬の歌
この人麻呂の歌を本歌取りして、以下の歌が詠まれました。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
衣かたしきひとりかも寝む
こおろぎが鳴く、霜のふる夜に狭いむしろに
衣の一方の袖をしいて、私は一人寝るのかなあ。
作者は最初に挙げた「みよしのは山もかすみて」と同じく、
後京極摂政・藤原良経。この歌は百人一首に採られています。
>み吉野は山もかすみて白雪の
ふりにし里に春はきにけり
>きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
衣かたしきひとりかも寝む
並べてみると、なかなかいい感じじゃないですか?
春の歌と冬の歌。表裏一体になっている感じがします。


