逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり 権中納言敦忠

あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもわざりけり (ごんちゅうなごんあつただ)

意味

あなたと逢瀬を遂げてからというもの、こんなにも恋焦がれております。それに比べたら、まだ逢っていなかった昔はなんと悩みの少なかったことでしょう。

語句

■逢ひ見る 男女の仲で言う「逢う」「見る」はともに契りを結ぶ、逢瀬を行う意味。 ■のちの心 逢瀬を遂げた後の、つまり現在の気持ち。 ■ものを思はざりけり 「ものを思ふ」は恋わずらいに悩むこと。最初の逢瀬を遂げたい遂げたいと思っていた頃とは、悩み苦しみ、恋しさが出てきたことを言う。 ■けり 過去に加えて詠嘆の意味の加わった助動詞。

出典

拾遺集(巻12・恋2・710)「題知らず 権中納言敦忠」。『拾遺集』の前身『拾遺抄』の詞書には「はじめて女のもとにまかりて、またの朝につかはしける」とある。つまり初めて逢瀬を遂げた女に翌朝送った文ということで後朝の歌。

決まり字

あい

作者 権中納言敦忠

権中納言敦忠、藤原敦忠(906-943)。平安時代中期の歌人。三十六歌仙の一人。菅原道真を左遷に追い込んだことで知られる左大臣時平の三男。母は在原棟梁(ありわらのむねやな)の女。よって敦忠は在原業平の曾孫にあたります。

901年従五位下。侍従・左兵衛佐・右衛門佐・左近権少将などを経て934年蔵人頭。左近中将、参議を経て従三位権中納言に至り38歳の若さで亡くなります。人々は菅原道真の祟りと言い合いました。

『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に30首入集。家集に『敦忠集』があります。

父時平を「本院の大臣(おとど)」と言ったので敦忠は「本院の中納言」と言われました。また琵琶の名人であったため「枇杷の中納言」とも言われました。

敦忠の死後、同じく琵琶の名人であった源博雅(みなとものひろまさ)が宮中一の名手ということになりました。しかし敦忠の演奏を知っている老人たちは、もし敦忠が生きていれば博雅ごときがもてはやされることは無いと言って嘆いたと『大鏡』に記されています。

敦忠の母は在原業平の子、在原棟梁(ありわらのむねやな)の娘で、祖父業平に似て絶世の美人だったと言われています。谷崎潤一郎『少将滋幹の母(しょうしょうしげもとのはは)』は、敦忠の母をモデルにした時代小説です。