あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたずらになりぬべきかな 謙徳公

あわれとも いうべきひとは おもおえで みのいたずらに なりぬべきかな (けんとくこう)

意味

「可哀想」と言ってくれる人も思い浮かばないまま、我が身はあなたを恋焦がれて恋死にしてしまうでしょう。

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語句

■思ほえで 「思ほえ」は動詞「思ほゆ」の未然形で「思われる」の意。「で」は否定。 ■徒になる 「死んでしまう」の意。

出典

『拾遺集』(巻15・恋5・950)詞書に「物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて更にあはず侍りければ 一条摂政」

決まり字

あわれ

解説

かつて言い寄っていた女性がいたのです。ところがその女性が最近つれなく会っててくれなくなりました。そこで恨み言として男が送った歌です。

藤原伊尹(ふじわらのこれまさ、これただ 924-972)。平安時代中期の歌人・公卿。26番貞信公の孫。右大臣藤原師輔の長男。50番藤原義孝の父。書家として名高い藤原行成は伊尹の孫。謙徳公は死後のおくり名(諡)です。

蔵人頭、参議、右大臣を経て摂政となり、また藤原氏の氏の長者(藤原家の家長)となり、正二位太政大臣に至りました。

その間、伊尹は政敵・源高明を失脚させます(969年 安和(あんな)の変)。冷泉天皇の叔父である源高明が当時、政治を取り仕切っていましたが藤原伊尹は高明の存在を脅威と考え、清和源氏である源満仲の密告を入れて高明を大宰府に左遷しました。

ここに藤原氏による他氏廃絶(藤原氏以外を政界から追い出すこと)は完成しました。しかし伊尹は安和の変の3年後、病没。謙徳公とおくり名されました。

藤原伊尹はたいへんな派手好きでした。『大鏡』は伊尹の派手好きについて有名な逸話を伝えています。伊尹が大臣に就任した時、祝宴を開こうとしたところ、壁がすすけていました。そこで伊尹は「陸奥紙(みちのくにがみ)」を取り寄せ、壁一面に張らせました。

「陸奥紙」は奥州檀紙で、当時とても高級な紙でした。このように贅沢の限りをつくしたのです。父の師輔は子孫に質素を心がけるよう遺言していましたが、伊尹は父の遺言には従いませんでした。五十歳で亡くなった時は人々は罰が当たったのだと噂しあいました。

一方で伊尹は和歌にすぐれていました。村上天皇の天暦5年(951年)、宮中の梨壷に勅命により和歌所が設けられ、『万葉集』に訓読をつけること、『後撰集』の編纂を行うこと、二つの事業が命じられます。

「梨壷」とは御所の建物の一つ昭陽舎(しょうようしゃ)で、庭に梨の木が植えられていたことから「梨壷」と言われていました。

そして和歌所の職員として五人の寄人(よりゅうど)…坂上望城(さかのうえのもちき)、紀時文(きのときぶみ)、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、源順(みなもとのしたごう)が選ばれました。

伊尹は彼ら「梨壷の五人」を監督する立場として、『後撰和歌集』の編纂に深く関わることになります。伊尹自身の歌も『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に38首採られています。

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