由良のとを渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな 曾禰好忠
ゆらのとを わたるふなびと かじをたえ ゆくえもしらぬ こいのみちかな (そねのよしただ)
意味
由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が、梶を失って行き先もわからずゆらゆらと漂っているように、この先どうなっていくかわからない、私の恋路だよ。
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語句
■と 「戸」もしくは「門」と書き、海峡や瀬戸のこと。 ■梶 舟をこぎ進める道具。艪や櫂。オール。現在の「舵」とは違います。また「梶緒絶え」とする解釈もあり、この場合は「梶が折れてしまったので(行く先も定まらない)」となる。初句から「かぢを絶え」までが序詞。梶を失って大海原をさ迷う舟…。行き先の見えない恋に悶々とする我が身を大海原を漂う舟にに例える。「恋」=「海」「舟」=「私」。
出典
『新古今集』(巻11・恋1・1071)「題知らず 曾禰好忠」。ほか家集の『好忠集』にも。
決まり字
ゆら
解説
「由良」は丹後(京都府宮津市)由良川の河口、もしくは紀伊(和歌山県由良町)の地名。好忠が丹後掾だったことから前者と見る説が有力です。
ちなみに丹後の由良川河口は60番小式部内侍が詠んでいる天の橋立の近くです。また地名のほかに「ゆらゆら」という舟が頼りなくただよっている様をあらわす擬音も掛けています。
曾禰好忠。生没年不詳。平安時代中期の歌人。長く丹後掾だったので曾丹(そたん)・曾丹後(そたんご)と呼ばれました。偏屈でひがみっぽい性格のため、社交界からは孤立していました。
寛和元年(985年)二月十三日、円融上皇が船岡に御幸します。きらびやかな上皇さま御一行を見物するため、二条通りから大宮通まで物見車がひしめいていました。
やがて一行は紫野につくと帳をはりめぐらし、歌会をはじめます。平兼盛、清原元輔、大中臣能宣、源重之ら、今をときめくそうそうたる歌人たちがお召しに応じて席についていました。見ると、隅にみすぼらしい老人の姿があります。
「なんじゃあの汚いのは?」
円融上皇がお咎めになります。その老人こそが誰あろう曾禰好忠でした。
「こら、なぜそこに座っている」
口々に咎める役人たちに、曾禰好忠は堂々と言い放ちました。
「本日の上皇さまの御遊には歌詠みが集められるときいたぞ。
歌詠みであれば、この好忠。そこらの連中に負けるわけがない」
「ぶ…無礼な。つまみ出せ」
こうして曾禰好忠は藤原実資・藤原朝光らによって、つまみ出されてしまいました。(『今昔物語』巻28の3、『今鏡』)