八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり 恵慶法師

やえむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり(えぎょうほうし)

意味

幾重にも雑草が生い茂るこの宿の寂しいただずまい。誰も訪ねてくる者はいないのに、【秋】だけは、今年もこうして訪ねてきてくれた。

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語句

■八重葎 幾重にもしげった葎で邸宅が荒れたさまを表す慣用表現。「葎」はツル性の雑草の総称。 ■さびしきに 「に」は三説あり。①場所をあらわす格助詞 ~さびしい場所で。②順接の接続助詞 ~さびしいので ③逆説の接続助詞 ~さびしいのに。当サイトでは③に立ちます。 ■人こそみえね 人は見えないが。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形。「こそ~ね」で係り結びが成立 ■秋は来にけり 「けり」は詠嘆。

出典

拾遺集(巻3・秋・140)詞書に「河原院にて、荒れたる宿に秋来(きた)るといふ心を、人々よみ侍りけるに 恵慶法師」。

決まり字

やえ

解説

『拾遺集』によると、この歌に詠まれている【宿】とは、14番河原左大臣源融の邸宅【六条河原院】です。融はこの邸宅に陸奥塩釜の風景を庭に再現したり難波から潮水を運ばせて池のそばで塩焼きを焼くという贅沢を尽くしました。

一代の風流児融の死後、はやくも河原院の荒廃は始まります。35番紀貫之は、「古今集」哀傷の部に融死後の河原院について歌を詠んでいます。

河原の左のおほいまうち君のみまかりて後、かの家にまかりてありけるに、塩竈といふ処のさまを造れりけるを見てよめる

君まさでけぶり絶えにし塩竈のうらさびしくも見え渡るかな

(あなたが亡くなってから、塩竈の浦を再現していた河原院も荒れ果ててしまい、文字通りうら寂しくあたり一面見渡せることですよ)

融の死後、息子の昇が河原院を相続しますか豪華な邸宅を持て余し宇多上皇に献上します。

宇多上皇はしばしば河原院で御遊をされました。ある時、宇多上皇が河原院で御休みになっていると融の霊が現れ、「上皇さまがいらっしゃるので窮屈です」と訴え、宇多上皇が「お前の子孫が私にくれたのだ無理矢理奪ったわけではない」と一喝すると、融の霊は消え失せたといいます。

このように融の幽霊の出るという噂が立ち、また鴨川の氾濫もあって恵慶がこの歌を詠んだ10世紀中ごろにはすっかり荒れ果てていました。しかし荒れ果てたとはいえ、河原院は昔からの風流の地として一種の名所になっていたようです。

この歌が詠まれた頃、河原院は融の曾孫の安法法師によって管理されていました。安法法師は文人墨客を招いて河原院でしばしば風流の遊びにふけりました。

恵慶も河原院を訪れる常連の一人でした。ほかに常連として40番平兼盛42番清原元輔48番源重之51番藤原実方といった顔ぶれがありました。

源融、在原業平、紀貫之の時代を経て、宇陀上皇へ、そして安法法師、恵慶法師へと。かつて栄えていた河原院の面影はみえず、すっかり荒れ果ててしまった…。100年という時間の中、河原院を訪れた数々の文人墨客に思いをはせる時、いよいよ胸に迫るものがあるのです。

恵慶法師。出自・生没年未詳。平安時代中期の僧・歌人。中古三十六歌仙の一人。播磨の国分寺の講師(こうじ 僧官)をしていた記録があります(続詞花集)。平兼盛源重之大中臣能宣・紀時文・清原元輔らと交流があり、河原院における安法法師の歌の集まりの常連でした。家集に『恵慶法師集』があり『拾遺集』以下の勅撰和歌集に五十六首を採られています。

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