めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな 紫式部
めぐりあいて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よわのつきかな (むらさきしきぶ)
意味
たまに姿を現したかと思うとその姿を見定める暇さえ与えず、すぐに雲に隠れてしまう月のように、あなたは久しぶりに来てくれたというのに もう帰ってしまうんですね。あなたが確かに昔なじみのあなただと、見定める暇もないほど、さっさと帰ってしまうんですね。
石山寺 紫式部像
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語句
■めぐり逢ひて 表面は月とめぐり逢うことを言うが、詞書から古くからの幼馴染にめぐり逢ったことを指す。「めぐる」と「月」は縁語(「めぐる」が「月」を連想させ、「月」が「めぐる」を連想させ、相互に連想によって結びつく)。 ■見しやそれとも 見たのはそれ(月・友人)か、どうかも。「や」は疑問の係助詞。 ■わかぬ間に 区別・識別できない間に。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。 ■雲がくれにし 「雲がくれ」は複合動詞「雲がくる」の連用形。雲にかくれて見えなくなる。表面は月が隠れてしまったことだが、暗に友達が帰ってしまったことを指す。「に」は完了の助動詞「に」の連用形。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。 ■夜半の月かな 「夜半」は夜中。夜更け。「かな」は詠嘆の助動詞。家集『紫式部集』や『新古今和歌集』および百人一首の古い写本では「月影」。
出典
新古今集(巻16・雑上・1499)詞書に「早くよりわらはともだちに侍りける人の、年頃へて行きあひたる、ほのかにて、七月(ふみづき)十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ 紫式部」(早くから幼馴染であった人が久し振りに遊びに来てくれたと思ったら、ほんの少しいただけで、七月の十日のころ、月と競い合うようにして帰ってしまったので)
決まり字
め
解説
久し振りに幼馴染が訪ねてきてくれたのです。紫式部は夜を徹して話し合おうとワクワクしていました。お菓子なんか用意したかもしれませんね。しかし友人はスッと立ち上がり、
「じゃあ私はそろそろ」
「えっ、今来たばかりじゃないの。
もっとゆっくりしていけばいいのに…」
「ごめんなさいね。そうもいかなくて…」
「そうなの…」
友人は月と競い合うように、そそくさと帰っていきます。
その後ろ姿を見送る紫式部。
(もうちょっと話したかったのに…。
でもそんなこと言ったら面倒な女と思われるかも…)
めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな
紫式部は内にこもる性格で、腹を割って人に心の底を打ち明けるというタイプではなく、したがって友人も多くなかったようです。常に内にこもり、内にこもり、自分と人の心の動きを深く観察しました。清少納言とは正反対です。
そういった内向的な性格が『源氏物語』という文学を生んだのは感慨深いことです。また紫式部は清少納言のことを「したり顔にいみじう侍りける人」と悪し様に評してますが、社交的で誰からも好かれる清少納言に対する羨望もあったのかもしれません。
紫式部。生没年未詳。本名未詳。平安時代中期、一条天皇の時代に活躍した女流文学者。『源氏物語』の作者として知られます。家集『紫式部集』、日記『紫式部日記』があります。
石山寺 紫式部像
父は学者であり歌人である藤原為時(ふじわらのためとき)。母は藤原為信(ふじわらのためのぶ)の女。27番中納言兼輔の曾孫。
生前の女房名は「藤原」から「藤式部(とうしきぶ)」でした。
「紫」は『源氏物語』のヒロイン紫の上から「式部」は父の役職名「式部丞(しきぶのじょう)」に由来します。
幼くして母と姉を失い、弟(もしくは兄)の惟規(のぶのり)とともに父のもとで育てられます。
父為時は式部の弟惟規に漢文の指導をしていましたが横で聞いていた式部のほうが早く吸収してしまい、父為時は「お前が男だったら」と言って嘆いた話は式部の少女時代の聡明ぶりを伝える逸話として知られています。996年、越前守となった父に従って北陸に下り、翌々年帰京。父の同僚の山城守 藤原宣孝(やましろのかみ ふじわらののぶたか)と結婚し翌年一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ)を生みます。百人一首にも採られている後の大弐三位です。
紫式部と藤原道長
この年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めたと見られ、
その評判によってか1005年一条天皇中宮彰子のもとに出仕することになります。
一説には、藤原道長が『源氏物語』を読んで、その素晴らしさに感激して、彰子の教育係として紫式部を招いた、ということです。
「うーん、女房たちが源氏、源氏と騒いでいるので、
何だと思って読んでみたら、たしかにこれは面白い。
物語といい人物造形といい…
特にこの主役の光源氏は、美男子で金持ちで、
モテモテで、まるでワシみたいじゃないか」
そんな厚かましいことも考えたでしょうか。
「しかしこれほどの豊かな世界を創り上げた作者というのは、
どういう方なんだろう?
先生のお話をうかがいたい」
こういう話になってきます。
そこで藤原道長は紫式部を招くと、お父さんの為時は大喜びしたでしょうね。
「でかしたぞ式部!お前に女だてらに学問をしこんできた甲斐があった!
あの道長さまに招かれるなんて、これ以上の名誉は無い!」
ところが紫式部はどっちかというと奥手な、引っ込み思案なタイプでした。
「そんな、父上ったら、喜んじゃって。
私、どうしましょう!道長さまの前で、
粗相でもしたら…」
「何を言っておるか。女一世一代の、大舞台ではないか。
ドーンと、行ってまいれ!」
ドーンと送り出されました。
道長は、あの『源氏物語』を書いた作者だから、どういう素晴らしい人物だろうと、心待ちにしていたら、
なんかオドオドオドオドして、挙動不審である。
「ますます気に入っちゃった!!」
そんな感じで、紫式部を彰子の教育係に据えた。のではなかろうか、と言われています。
内にこもりがちで人と打ち解けない式部は、はじめての宮仕えにとまどったようですが、しだいに打ち解けていきました。
ある時一条天皇が式部が『日本書紀』を読んでいることを知り感心されます。その話が宮中に広まってしまい、式部はまわりの女房たちから『日本紀の局(にほんぎのつぼね)』とあだ名されるようになりました。
しかし式部自身はそのようにもてはやされることを嫌い、なるべく目立ちたくないと思っていたようです。それにしてはこんな文章を日記に残したりして、なんともめんどくさい女って感じがします。
このあたり、自分の文才をはつらつと表に出した清少納言とは対照的です。
『紫式部日記』には、式部が先輩の女房から「どうして漢字の書など読むのですか。昔はお経でさえ女は読まなかったものです」とたしなめられる場面があります。
女は漢字など読むべきではない。下手に才気ばしって男の真似なんかして漢字の書物を読んでいると、ロクなことにならないという根強い考えがありました。
途中5年ほど中断をはさみながらも中宮彰子に仕え続けましたが、その後の消息は不明です。
「清少納言と紫式部が出会っていたら?」
誰もが妄想するところですが、清少納言が宮中を去ったのが長保三年(1001年)ごろ。それから5・6年を隔てた寛弘4年ごろ紫式部が出仕しています。
おそらく二人が直接顔をあわすことはなかったと思われます。清少納言が紫式部を評した文章は、今のところ発見されていません。
曽祖父 兼輔
紫式部は曽祖父の兼輔を、文学の先達として誇りに思っていました。百人一首27番に歌を採られている藤原兼輔です。
兼輔の館は鴨川のほとり京極あたりにありました。この邸宅には紫式部もたびたび出入りしていたといいます。
現在、京都御所東の蘆山寺が兼輔の邸宅跡と見られ、境内には「紫式部邸宅跡」の碑が建っています(京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397)。
紫式部の墓は島津製作所紫野工場の隣に
小野篁の墓と並んで立っています
(京都市北区堀川北大路通下ル西)。
なぜ紫式部と小野篁の墓が隣り合ってるのか?それは、
地獄で会ったっていうんですね、この二人。
紫式部は地獄に堕ちて、灼熱地獄で苦しんでいた。なぜ地獄に堕ちるかというと、『源氏物語』という壮大なホラ話を書いたから。
仏教の教えでは、小説なんか書くのはとんでもない。人の心を惑わすことだとされていましたので。だから紫式部は、灼熱地獄に堕ちて、熱に焼かれて苦しんでいた。ところへ、小野篁が通りかかった。
「そなたはもしや、紫式部」
「そういう…あなたは?」
「私は古の歌人・小野篁」
「まあ、小野篁さま!あなたが!ご高名は常々伺っております」
「いやいや、あなたこそ大したものだ。『源氏物語』、地獄でも大人気です。
私も読みましたが…たいへん面白い。
地獄の一丁目のジュンク堂でも紀伊国屋書店でも行ってみなさい。
ベストセラーで平積みになってるから」
「でもその『源氏物語』のせいで、私はこうやって地獄の責め苦を受けているのですわ」
「うーん、たしかにそれは不憫だ。よろしい。
私がエンマ大王に袖の下をちょとこう、渡して」
「まあ、そんな、よろしいんですか!」
こうして紫式部は地獄の責め苦から解放され、極楽往生できた…こういう話があるために、紫式部と小野篁の墓が隣り合っていると思われます。
墓の西側には、紫式部が晩年を過ごしたという
雲林院(うりんいん)の跡があります。
北野天満宮の北方にある引接寺(いんじょうじ)
千本閻魔堂には、式部供養塔があります
(京都府京都市上京区千本通鞍馬口下ル閻魔前町34)。
ここは小野篁が出入りした地獄の出口の一つとされ、
紫式部と並び小野篁にも思いを馳せながら歩いてみるといいですね。