高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみ立たずもあらなむ 権中納言匡房
たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん (ごんちゅうなごんまさふさ)
意味
はるか遠くのあの高い山の頂に、桜が咲いたなあ。手前の山にかかっている霞が立って、視界を遮らないでほしい。すばらしい桜が見えなくなるから。
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語句
■高砂 播磨国の歌枕(34藤原興風参照)だが、ここでは単に「高い山」という意味の一般名詞。もともとは砂が高く積もるの意味。 ■尾上 「峰(を)の上(へ)」の略。山の上。山の上の平らな部分。 ■外山 人里近い山。「深山(みやま)」や「奥山」の対語。「端山(はやま)」とも。 ■霞 水蒸気がかかってぼんやりしている状態。春は霞。秋は霧。 ■立たずもあらなむ 立たないでほしい。「なむ」は他者に対して誂え望む終助詞。
出典
後拾遺集(巻1・春上・120)。詞書に「内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山の桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣」。「内のおほいもうち君」は内大臣。後二条関白といわれた藤原師通(もろみち)のこと。その二条の館で人々が宴会を開いて歌を詠んだ時、はるかに山の桜を望むという題詠で詠んだ歌。
決まり字
たか
解説
「高砂」は地名ではなく一般名詞です。高い山、の意味です。「尾の上」は「頂、頂上」。はるか向こうに見える高い山に桜が咲いたのです。
「外山」は近くにある山。手前の山に霞がかかると、視界がさえぎられてせっかくの向こう側の見事な桜が見れない。霞が出なければいいんだが、という歌です。
手前に「外山」があり、奥に「高砂の尾上の桜」があるのです。近景と遠景が対照的に描かれているわけです。漢詩人の匡房らしい趣向ですが、それほど技巧が嫌味にならず、すらっと詠めます。感じのいい歌です。
権中納言匡房。大江匡房(1041-1111)。父は大江成衡(おおえのなりひら)。大江匡衡・赤染衛門夫婦の曾孫。漢詩人。先祖は大江音人(おおえのおとんど)。4歳で書を読み習い、8歳にして史記・漢書を通読し、11歳で詩を作ったといいます。正二位中納言兼大宰権師(だざいのごんのそち)。『江家次第』『江談抄』『続本朝往生伝』『遊女記』『洛陽田楽記』『狐媚記』『傀儡子記』『暮年記』『本朝神仙伝』など著書も多いです。
東琴の歌
匡房が若い頃、宮中を歩いていると、女房たちがおいでおいでと御簾の際に呼び寄せました。何ですと行ってみると、これ弾いてごらんと和琴(わごん)を押しつけられました。和琴とは六弦の東の琴です。
学者のことで、琴を弾くような風流は無いだろうと侮ってのことでした。そこで匡房は詠みます。
逢坂の関のかなたもまだ見ねば あづまのことも知られざりけり
(逢坂の関の向うへはまだ行ったことがありませんので、あずまのこと…東の琴は当然、わかりませんね)
やりこめようとしていた女房たちは、こんな見事な歌で切り返されて、言葉につまってしまいました。誰も返歌はできませんでした。
八幡太郎義家と『孫子』
また匡房は「孫子の兵法」の研究で知られます。八幡太郎義家は匡房から『孫子』を習ったとされます。
後三年の役の際、源義家は敵・清原家衡の立てこもる出羽国(秋田県・山形県)の金沢柵(かなざわのさく)へ進軍しました。
「殿!この原を越えれば金沢柵です」 「うむ。必ずや、蹴散らしてくれよう」
その時、
バサバサバサーー
雁の群れが飛び乱れます。
「むむ…雁の群れが飛び乱れている…。これはいかん。
大江匡房さまから教わった『孫子』にはこうあった。
雁が飛び乱れるのは、伏兵がいる証拠だと。
注意して進め!」
源義家軍はゆっくりと進んでいき、ころあいを見計らってひょうひょうと矢を放ちました。ぐはあ、ぐえっと伏兵は射殺されたという有名な逸話です。
孫子の兵法 音声付
↑こちらで『孫子の兵法』を朗読しています。