秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔

あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいずるつきの かげのさやけさ (さきょうのだいぶあきすけ)

意味

秋風にたなびく雲の絶え間からもれ出る月の光のなんと明るいことよ。

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語句

■左京大夫 左京職の長官。 ■秋風に 「に」は原因・理由。秋風によって。 ■たなびく 横に長くなびく。 ■影 光。 ■さやけさ 明るく光り輝いている様子。体言止め。

出典

新古今集(巻4・秋上・413)。詞書に「崇徳院に百首の歌たてまつりけるに 左京大夫顕輔」。「崇徳院にたてまつった百首の歌」とは、「久安百首」のこと。「久安百首」は崇徳院が1142年ごろ13名の歌人に命じて百首ずつの歌を提出させたもので、途中3名が亡くなり人員を補充するなどして久安元年(1150年)頃成立した。ただし崇徳院にたてまつったという『古今集』の歌は二句が「ただよふ雲の」になっている。

決まり字

あきか

解説

わかりやすい言葉でスッと詠み流されており、末尾を体言止めでキッチリ締める。声に出して気持のいい歌です。内容としては「だから何」という感じですが、さわやかな秋風が心地よく流れ、雲の絶え間にさやかな月が見えるようです。

左京大夫顕輔。藤原顕輔(1089/90-1155)平安時代後期の歌人。父は正三位修理大夫藤原顕季(あきすえ)。母は藤原経平の女。最終官位は正三位左京大夫。

父顕季は白河院の乳母の子で、白河院とは乳兄弟の関係でした。白河院の寵愛あつく、また詩歌にすぐれ和歌の家「六条家」の開祖となります。「六条家」というのは六条烏丸に館があったためです。

顕季の跡をついだ顕輔は父ほどの権勢は無いなかったものの、俊頼基俊亡き後の歌道の指導者として活躍します。六条家を歌道の権威とすることに功績がありました。1144年崇徳院より院宣を下され六番目の勅撰和歌集『詞花和歌集』を編纂します。

六条家からは顕輔の後も息子清輔、養子の顕昭、孫の有家・知家などすぐれた歌人・歌学者があらわれ、藤原俊成定家父子の御子左家(みこひだりけ)のライバル的家系となっていきます。

人麿の影を祀る

顕輔の父顕季は大納言実季の養子となりよく歌を詠みました。柿本人麻呂を慕っていました。

ある時藤原兼房が夢に人麿の姿を見て、その夢の中の像を絵師に描かせて白河院に献上します。

白河院のもとでその人麿像を見た顕季は、自分の想像する人麿のイメージとぴったりなことに驚きます。

「これこそ人麿です!これ以外に人麿はありえません!
上皇さま、畏れ多きことは承知の上で申し上げます。
なにとぞ、なにとぞこの顕季に御貸しください」

顕季は人麿像を借りることを熱心に白河院に頼み込み、ついに許されます。人に命じて描きうつさせ、源俊頼などの歌人を招いてその人麿像を祀る「人麿影供(えいぐ)」を催しました。

その後、白河院の所蔵していたオリジナルの人麿像が燃えてしまったので人麿像は顕季のものだけということになり、顕季はますます人麿像を大切にしました。

「わが子といえども歌の下手な者にこの人麿像は譲らぬ」

そう言っていましたが、末子の顕輔は歌の上手によって譲りました。

俊頼の絶賛した歌

また顕輔の優れた歌には、

逢ふと見てうつゝのかひはなけれども はかなき夢ぞ命なりける

(夢の中で貴方と逢っても、現実には何の意味も無いのだけど、今の私はそんな、夢の中のはかない逢瀬さえも、命綱と思えるのです)

源俊頼はこの歌を絶賛しました。いわく、キレイな廊下を椋の葉でピカピカに磨いて、その上脂をかけたような、完璧な上にも完璧な歌だと。

普通なら「はかなき夢ぞ嬉しかりける」と詠むところを、誰がこんなふうに詠めるだろうかと。

ほかに代表歌

年経とも越の白山忘れずば 頭の雪をあはれとも見よ

(年月が流れても越前の白山の神が私を忘れないでいてくださるなら、こんなにも白髪頭になった私を哀れんでください)

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