来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家
こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ (ごんちゅうなごんていか)
意味
いつまでも現れない貴方を待っていると、まるで松帆の浦の夕凪の時に焼く藻塩のように、私の身はずっと恋焦がれるのです。
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語句
■まつほの浦 来ぬ人を「待つ」と地名の「松帆の浦」の掛詞。「松帆の浦」は淡路島最北端。明石海峡に面する。歌枕。今の兵庫県淡路市。現在は明石大橋がかかり景観がさまがわりしている。 ■夕なぎ 夕暮れ時、風が凪いで波が静まっている状態。 ■焼くや藻塩の 「まつほの」から「藻塩の」までが次の「こがれ」を導く序詞。「や」は語調を整え詠嘆の意をそえる間投助詞。「藻塩」は、海藻に潮水をかけて太陽で乾かし、それを燃やしてできた灰を水に溶かし、それを煮詰めて塩を生成した。 ■身もこがれつつ わが身は恋い焦がれ、藻塩も焼け焦がれている。「つつ」は継続・反復の接続助詞。
出典
新勅撰集(巻13・849)。詞書に「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」。定家家集の『拾遺愚草』によると順徳院主催の建保4年(1216年)の内裏歌合で詠まれた歌で勝利している。
決まり字
こぬ
解説
【松帆の浦】
女性の立場から詠んだ歌です。松帆の浦は歌枕。淡路島の北の端、明石海峡と向かい合ったところです。植物の「松」と「人を待つ」の「待つ」が掛けられています。
「藻塩」は海藻に潮水をかけていったん乾かします。それを燃やして、できた灰を水に溶かします。そして蒸留すると、塩の結晶が浮かび上がってくるわけです。こうして塩を生成しました。
その、海藻をジリジリと燃やしてる感じが、待ってる私のもどかしい気持ちにピッタリというわけです。
権中納言定家。藤原定家(1162-1241)。鎌倉初期の歌人・官人。歌人としては「ていか」と音読みされます。正三位皇太后宮大夫俊成の次男。兄は成家。母は若狭守藤原親忠の娘・美福門院加賀。寂蓮は従兄弟。幼名光季。のちに季光と改名。
歌道の家・御子左家の生まれです。御子左家は藤原北家道長の六男長家を祖とし、俊成・定家の代で歌道の家として確立しました。
御子左家
左少将、参議、民部卿を経て正二位中納言に至り京極中納言と呼ばれました。1233年出家。法名明静(みょうじょう)。後鳥羽院によって再建された和歌所寄人となり『新古今集』の選者の一人となります。日記『明月記』は当時の貴族社会を知る貴重な資料です。1235年、宇都宮蓮生の依頼で『百人一首』の原型を作ったといわれます。
常寂光寺(定家の「小倉山荘」の候補地のひとつ)
歌人の家系
定家が生まれた時、俊成は48歳。当時としてはかなりの高齢です。
俊成も、まさかその歳で子を授かるとは思わなかったでしょう。うほほ、わしの子じゃ、わしの子じゃと喜んだと思います。
しかし、長く子のいなかった俊成は、若い頃に養子を取っていました。名を定長といいました。しかし長男についで次男が生まれ、遠慮したのか、定長は俊成のもとを去ります。
定長は出家して僧となり、「寂蓮」と名乗ります。百人一首にも歌が採られている、有名な一字決まりの歌ですね。
むらさめの露もまだひぬ真木の葉に
霧たちのぼる秋の夕暮
紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ
一方、定家は俊成のもと、幼少の頃から歌の指導を受けます。また西行法師や薩摩守忠度と交流を持ち、天性の才能に磨きをかけていきました。
時に1180年。源氏が挙兵し源平の争乱がはじまりますが、この年から定家は『明月記』という日記をつけはじめます。実に73歳まで続けています。まめな性格ですね。
『明月記』の最初にはこう書かれています。「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」。世間ではワアワアさわいで朝敵平家を討つとか言ってるが、そんなことは知ったことか」。俺は歌の世界に没頭するのだ。
この言葉通り、定家は歌合に参加し、父の跡をついで歌人としての名声を上げて行きます。
性格には問題あった?
定家は才能あふれる一方、性格には問題があったようです。血の気が多く、いつもイライラしていました。24歳の時宮中で源雅行という人物から侮辱されます。
「あんたの歌、ダメだね。頭でっかちだ」
そんな事を言われたんでしょうか。言われた内容は伝わってませんが…
「お前、今なんつった!!」
定家は手近にあった燭台を取って、
バシーー!!
雅行の頬を強く打ちました。
「ひ、ひいい」
「殿中でござる、殿中でござる!」
ではないですが…この事件によって定家は職務を停止させられ、父俊成のはからいで、ようやく復帰できました。
三夕の歌
若い頃の定家の歌は難解で、頭でっかちで、禅問答のようにわかりにくいことから「達磨歌」と揶揄されていました。そんな不名誉な評価に、プライドの高い定家はいつも傷つき、イライラしていました。
「西行さま、どうすればうまい歌が詠めるのですか。
私は西行さまのような、よい歌人になりたいのです」
五条京極の俊成の館には西行法師が出入りしていて、西行は俊成の子の定家とも交流がありました。西行は若い定家に、何かと相談に乗っていたようです。
1186年、西行は東大寺の大仏再建のため、奥州藤原氏に砂金を勧進するために伊勢から奥州に旅立ちます。その出発に際して、西行は伊勢神宮に百首の歌を奉納しました。
寂蓮法師、藤原隆信・藤原家隆など当時を代表する歌人が顔をそろえる中、25歳の藤原定家の姿もありました。
(思うまま…見たまま…)
そこで定家、詠みました。
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
おおお…
わきたつ周囲。
「今度のはいいですね」
「定家さんの歌とは思えない」
「ひと皮むけましたな」
なんて言い合ったかどうか、わかりませんが…。
この歌は「三夕の歌」秋の夕暮の寂しさを詠んだの一首として、有名です。
「三夕の歌」…。昔学校で習ったと思います。
おぼえていらっしゃいますか?
寂蓮法師の
寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ
西行法師の
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
そして、藤原定家の
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
ですね。
和歌所寄人となる
後鳥羽上皇は定家の歌の才能を見出し、定家を重く用いました。
「定家よ。朕はいにしえの、華やいでいた歌の文化を、
今によみがえらせたい。
長らく廃止されていた和歌所を再建し、あらたな勅撰和歌集を編纂するのじゃ。
力を貸してくれるか」
「ははっ。上皇さま、ありがたきしあわせ」
こうして宮中に和歌所が復活します。
和歌所は平安時代中期、古くなった万葉集に訓読みをつけることと、
『後撰和歌集』の編纂を目的として、宮中の昭陽舎に設置されました。
清少納言の父として有名な清原元輔も寄人の一人でした。
昭陽舎の前には梨の木が植えられていたことから、この時えらばれた
和歌所の寄人を「梨壷の五人」といいました。
しかし『後撰和歌集』編纂後は、和歌所は解散し、ながらく設置されていませんでした。
1201年、歌に熱心な後鳥羽上皇の呼びかけによって、
和歌所は院御所内に復活します。
藤原良経、慈円、土御門(源)通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原(飛鳥井)雅経、鴨長明、藤原秀能
こうした面々が寄人として選ばれました。
後鳥羽院との確執
しかし定家と後鳥羽院の関係は、次第に悪化していきました。
定家は自分の能力に強い自負があり、それに見舞った昇進を強く求めました。
「まだ昇進できないですか。まだだめですか」
定家はたびたび後鳥羽上皇に奏上し、
昇進を望む歌を奏上したりもしました。
また定家は、歌の才能をいいことに他人を見下します。
ふん。こんなのが歌かよ。話にならないと。
言われたほうはムカッとします。
じゃあ下手に出て定家の歌をほめればいいかというと、
これもまた、やっかいでした。
自分でそうでも無いと思っている歌をほめられると、
定家は逆に怒り出しました。お前わかってないなと。
「あの人ほんと、やりにくいですよ。
どうにかしてください」
「ううむ…」
困り果てた訴えが、後鳥羽上皇のもとに多く届いていました。
また後鳥羽上皇は、定家の歌は他人がマネるべきものでは無いと書いています。
なぜならば、もっぱら言葉の美しさに酔いしれ、内容はそれほど深くなく、
個人の才能にたよって歌を詠んでいるからだ。カッコはいいが、中身が無いと。
一方、後鳥羽院も我の強い帝王でしたので、いったん定家にまかせた
『新古今和歌集』の編纂にこれはダメだあれはダメだと
いちいち口出しします。
「やってられるか」
こうして後鳥羽院と藤原定家の関係は、悪化の一途をたどり、
生涯修復されることはなかったようです。
1221年、承久の乱にやぶれた後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます。隠岐の島に18年をすごし、二度と本土に戻れないまま、1239年崩御しました。
定家はその間、一通の文も送りませんでした。おそらく、口うるさい上皇がいなくなって、せいせいしたと思っていたのではないでしょうか。
同じく百人一首に歌を採られている藤原家隆が配流後も後鳥羽上皇にたびたび文を書き送っていたのとは対照的です。