村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮 寂蓮法師

むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆうぐれ

意味

にわか雨が通り過ぎて木々の葉の上に軽くしずくが残った。そのしずくもまだ乾ききらないうちに、その葉のあたりに霧がぼんやりと立ち上る。侘しい秋の夕暮れ時だよ。

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語句

■村雨…にわか雨。断続的に激しく降る雨。 ■露…村雨の残したしずく。 ■まだ干ぬ…まだ乾かない。 ■真木…杉や檜など、立派な木のこと。「ま」は美称の接頭語。■霧…秋の景物。同じ自然現象を春は「霞」、秋は「霧」と言う。■秋の夕暮れ…体言止め。

出典

新古今集(巻5・秋下・491)詞書に「五十首の歌奉りしとき 寂蓮法師」。「五十首の歌」は建仁元年(1201年)に行なわれた老若五十首歌合せを指し、この歌は歌合で勝っています。

決まり字

解説

しっとりと落ち着いた歌です。水墨画のような渋い世界を描き出します。「むすめふさほせ」…百人一首の一字決まりの札の一枚です。最初の「む」を聞いた段階で札を取らないと、いけません。

寂蓮法師(1139?-1202)。平安後期・鎌倉初期の歌人。俗名は藤原定長。醍醐寺の僧俊海の子として生まれ、父の出家後、藤原俊成の養子となります。しかし俊成に長男成家につづき次男定家が生まれると、彼らに遠慮したのか、御子左家を離れて出家しました。西行にあこがれ諸国を遍歴しつつ歌を詠みます。

出家後も御子左家の中心歌人として活躍し、後鳥羽院が歌壇を盛んにすると、いよいよ活躍しました。1201年(建仁元年)和歌所の寄人に、ついで『新古今和歌集』の選者に選ばれますが、完成を待たずに翌年没しました。

三夕の歌「さびしさはその色としも無かりけり真木立つ沢の秋の夕暮」が有名です。

独鈷鎌首の争い

寂蓮の友人に顕昭(1130-1209)がいます。博学をもって世に知られ、歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』はじめ多くの著作のあります。若い頃比叡山に入りましたが、すぐに山を離れ仁和寺に入り、仁和寺の覚性法親王や守覚法親王の庇護を受けました。

顕昭は俊成・定家らの御子左家と対立する歌の家系・六条家の代表人物でした。

顕昭と寂蓮とは友人どうしでしたが、人となりは対照的でした。顕昭が学問があり博学なのに対し、寂蓮は学問がなく直感の才知で動くタイプでした。しかし、歌を詠むと直感型の寂蓮のほうがいい歌を詠んだりしました。

顕昭が言うことに、和歌の道はそう難しいものではない。なぜならば、学問の無い寂蓮でもいい歌が詠めるじゃないかと。

一方、寂蓮は言うことに、天下の芸道のうち、和歌の道がもっとも難しいと。なぜならば、学問のある顕昭でさえ、ろくな歌が読めないじゃないかと。

1193年藤原良経邸で行われた六百番歌合という大規模な歌合せの席で、寂蓮と顕昭との間で議論が起こります。

顕昭が独鈷をふるって、

「納得できませんな。寂蓮殿」

熱弁をふるうと、寂蓮は鎌首をもたげて

「なんですと!判定に文句があるんですか!」

と、反論します。

顕昭が独鈷をふるって熱弁をふるうと、
寂蓮は鎌首をもたげて反論します。

顕昭が独鈷をふるって熱弁をふるうと、
寂蓮は鎌首をもたげて反論します…

見ていた女房たちは「またいつもの独鈷鎌首じゃ」と笑いあいました。

「独鈷鎌首の争い」という言葉はここから来ています。

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