嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな 西行法師

なげけとて つきやはものを おもわする かこちがおなる わがなみだかな (さいぎょうほうし)

意味

「嘆け」と言って月が私に物思いをさせるとでも言うのであろうか。まさかそんなことはないのだが、月にあてつけるように流れる私の涙だよ。

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語句

■嘆けとて 月が人に嘆けといって。月を擬人化している。 ■月やはものを 「やは」は反語の係助詞。 ■思はする」…動詞「思う」+使役の助動詞「す」の連体形。前の「やは」の結び。 ■かこち顔 「かこつ」はあてつける。人のせいにする。嘆いているのは月のせいでは無いのに、まるで月のせいであるかのようにあてつける、の意。

出典

千載集(巻15・恋5・929)詞書に「月前恋(つきのまへのこひ)といへる心をよめる 円位法師」。『山家集』には「月に寄する恋」三十七首の一首として、自歌合せ『御藻濯(みもすそ)川歌合』にも採られる。

決まり字

なげけ

解説

理屈ぽくてあまりピンと来ない歌です。「西行にはもっといい歌があるのに…」は、多くの人が抱く意見のようです。しかし西行自身はこの歌をとても気に入っており晩年の自歌合『御藻濯川歌合』に入れています。

自歌合(じかあわせ)とは、自分の歌を左右に分けて一対ずつ優劣を競い自分または他人に判詞(講評)をつけてもらい、まとめたものです。『御藻濯川歌合』では藤原俊成が判者をつとめました。

西行(1118-90)。平安末~鎌倉初期の歌人。俗名佐藤義清(さとうのりきよ)。出家して円位、西行、大宝坊と名乗りました。父は左衛門尉佐藤康清。母は堅物源清経の女。同母兄弟に仲清がいます。

佐藤氏は藤原北家の房前の第五子魚名(うおな)から出ており、平将門討伐ことや大ムカデ退治で知られる鎮守府将軍俵藤太秀郷の九代目の子孫が西行です。また奥州藤原氏と同族とも言われます。

北面の武士となる

家は裕福で、紀伊国に田仲庄という荘園もありました。16歳で徳大寺実能(とくだいじさねよし)に仕えます。ついで鳥羽院の北面の武士として仕えます。同僚に同い年の平清盛がいます。

北面の武士は白河上皇が創設した上皇の身辺警護を行う武士団です。北面の武士になるには弓や馬術はもとより容姿端麗であること、詩歌・管弦あらゆる能力が必要とされる狭き門でした。

しかしいったん北面の武士になれれば武士として将来を約束されたようなものでした。

西行の父康清も白河法皇の北面の武士でした。また系図を見ると佐藤義清が最初に仕えた徳大寺実能の妹が鳥羽院の后の待賢門院ですから、このあたりのつながりもあって北面の武士になれたと思われます。

佐藤義清
【佐藤義清】

家柄もよく家も裕福。容姿端麗。そして北面の武士という超エリート。人もうらやむ順風満帆な人生だったと言えます。しかし保延六年(1140年)23歳の時、突如妻子を捨てて出家します。

「父さま私もつれてって」
「離せ。もう父でも娘でも無いのだ」
「父さま!!」
「離せと言うに。えーい離せ。うう…哀れなりわが娘。
だが、これこそ煩悩の元」

ドカーーッ

とりすがる4歳の愛娘を縁側から蹴り落として出家したというのは有名な話ですね。

「重代の勇士を以って法皇に仕え、俗時より心を仏道に入る。家富み年若くして心無欲、遂に遁世、人嘆息す」

藤原頼長の日記『台記』には、佐藤義清の出家について、こう書かれています。もっとも出家の動機は失恋の痛手だとか友人の死とか、崇徳院や待賢門院が疎外されるのを目の当たりにして無常に感じたなど、諸説あってよくわかりません。

出家後

出家後は東山や嵯峨野や鞍馬など平安京そばの山里に庵を結びながら転々とし、時には鈴鹿山を越えて伊勢にも足をのばしています。

出家前から詠んでいた歌の活動はますますさかんになり、行く先々で歌を詠みます。旧主徳大寺家や崇徳院のつながりで、しばしば都にも顔を出し歌人たちと交流を持ちました。待賢門院堀河藤原俊成、平家一門の薩摩守忠度。

また大原三寂と呼ばれた寂念・寂越・寂然の三兄弟。白河の僧坊に歌林苑を開いていた俊恵法師。

俊恵法師の歌林苑には多くの歌人が集まり歌合や歌会を開いていました。待賢門院堀河とは特に長い交流を持ったらしくかなり晩年になってからやり取りした贈答歌が残っています。

「西行殿、今度の旅はいかがでしたか」
「いや~吉野の桜、見事でした」
「まぁ!西行さまのお話ききたいわ♪」

などと言って盛り上がっていたと思われます。

後世漂白の詩人とうたわれるほど大げさなものはまだ無く、この頃はあくまで平安京に生活の基盤を置いていました。そのことに西行自身、疑問を感じていました。

(俺は何をやってるんだ?出家とはこんなものか?
これでは佐藤義清であった頃とかわらんじゃないか…
俺はもっと、命がけで生きたいんだ)

天養元年(1144年)30代はじめに最初の奥州の旅に出かけます。藤原実方能因法師をしたって、また数々の歌枕を訪ねての旅でした。これを「初度陸奥(しょどみちのく)の旅」呼びます。

朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすきかたみにぞ見る

(実方中将は、朽ちることの無いその名前だけを残して亡くなり、今は枯野の薄だけが残っている。私はその枯野の薄を実方中将の形見として、しみじみと見るのだ

白河の関屋を月の洩る影は人の心をとむるなりけり

(かつて能因法師は秋風の吹く季節にここ白河の関を訪れたというが、きっと能因法師は関の屋根から洩れる月の光にうっとりしていたことだろう)

この歌はもちろん、能因法師が福島の白河の関で詠んだとされる有名な歌、

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

をふまえます。

陸奥の旅から戻った西行は、久安5年(1149年)、高野山に入ります。以後、三十年あまり高野山を生活の基盤としました。しかし高野山に定住していたわけではなく、京や住吉、四国などに庵を結びながら転々としました。

1156年、鳥羽院が崩御すると西行は一時高野山を降りて京都に上り、追悼の歌を捧げています。かつて西行は鳥羽院の北面の武士として仕えていました。さまざまに感慨深いものがあったろうと思われます。

今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ君に契のある身なりけり

(今宵こそは思い知りました。前世から上皇さまにどんなに深い御縁をいただいていたかということを)

鳥羽院没後、崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起こります。結果は後白河天皇方の勝利。敗れた崇徳上皇は讃岐に流されます。

西行と江口の遊女

大阪の江口は、淀川と神崎川が合流地点です。合流といっても、
合流した後はすぐに大阪湾にそそぐのですが。ここ江口は
交通の要所として、市ができてたいへんにぎわっていました。
たくさんの旅人が行き交い、商売がさかんに行われていました。

そうなると、男性の相手をしてお金を稼ぐ…
そういう女性も出てきます。

ある時西行法師が、大阪の四天王寺に参詣する途中、
ここ江口にさしかかりました。

もう夕方という時分、急にざあっと雨が降ってきました。

「まいったなあ…。
このあたりには雨宿りできるような場所も無いし…
ん?」

見ると、一軒の家が建っていました。

(これぞ御仏の導き!)

とととん、

「もし、旅の僧ですが」

「はい?」

かららっ

戸を開けて出てきたのは、きらびやかな化粧をして
きれいな衣装をまとった美しい女性でした。

(これが噂に聞く、江口の遊女か…)
「あのすみません。旅の途中で雨にふられてしまいました。
雨が上がるまででかまいません。
しばらく休ませていただけませんか」

「あら、すみませんねえ。
御覧の通り、女ばかりの住まいです。
たとえお坊さんでも上げてさしあげるわけには参りません」

「しかし雨脚が激しくなってきました。
土間で休ませてもらうだけでもいいいんですが」

「ダメです」

「そうですか…じゃあ、こんなに頼んでも」

「お引き取りください」

「わかりました…」

(ちぇっ、ケチ…)

西行法師は雨の中、トボトボと引き下がろうとします。
そこでふと足を止めて、つぶやきました。

世の中を厭うまでこそ難からめ
仮の宿を惜しむ君かな

私のように出家隠遁している者の気持ちになることまでは
難しいでしょうが…私はちょっと休ませてくださいとお願いしている
だけなのに。あなたはそれさえ惜しむんですね。

暗にケチと言っているわけですが…

西行法師、

(なかなかウマイこと言った。勝ったな)

雨の中、ゆうゆうと立ち去ろうとします。

「ちょいとお待ちなさい!!」

遊女は後ろから西行の墨染めの袖をひっとどめて、

「なんですか!それだとまるで、私がケチみたいじゃないですか!
聞き捨てなりませんわ!」

詠みました。

家を出づる人とし聞けば仮の宿に
心とむなと思ふばかりぞ

あなたは家を捨てて出家隠遁した人じゃないですか。
それが仮り宿り?休ませてください?は。甘っちょろいことを
言わないでください。そう私は思うばかりです。

暗に、野宿しなさいと言っているわけですが、
西行法師、

「あ!これはうまいこと言った」

大笑いして、遊女も大笑いして、その夜は二人して
一晩中語り明かしたという「西行と江口の遊女」のお話です。

松尾芭蕉はこの「西行と江口の遊女」の話をふまえて、
『おくのほそ道』で北陸市振の章でたまたま旅の宿で居合わせた
という設定で二人連れの遊女を登場させています。

一つ屋に遊女も寝たり萩と月

の句を得ています。

中国・四国の旅

仁安3年(1168年)西行は50代はじめに中国・四国を旅します。讃岐には崇徳院の墓陵(白峯陵)を訪ね、旧主の霊を供養します。西行が崇徳院の墓を訪ねた話は、江戸時代に上田秋成の小説『雨月物語』に描かれました。


この旅ではまた、弘法大使ゆかりの善通寺を訪ね、庵を結びました。

治承4年(1180年)平重衡により東大寺が焼き討ちにされ、清盛によって福原へ都が遷されます。この年、西行はそれまで生活の基盤であった高野山を下り伊勢の二見が浦に庵を結びます。伊勢神宮の神官たちから神道思想を学び、お返しに彼らに歌を教えていたようです。

何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

(どんな神様がいらっしゃるかはわからないのだが、とにかく畏れ多くて涙がこぼれる)

この歌は西行作では無いという説が有力ですが、一般には「西行作」とされています。日本人の宗教観をよくあらわしている歌です。

ふたたび奥州へ

元暦2年(1185年)壇ノ浦に平家が滅びます。この頃、僧重源によって平家に焼き討ちにされた東大寺の大仏の再建運動がすすめられていました。

翌文治2年(1186年)西行は重源との約束によって、奥州藤原氏に大仏再建のための砂金を勧進するために奥州に下ります。時に西行69歳。

この旅で、名歌が多く生まれました。

年たけてまた超ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜(さよ)の中山

(若い頃一度超えた佐夜の中山を、年をとって再び越えることになろうとは思いもしなかった。生きていてこそだなあ。佐夜の中山は静岡の掛川にある峠です)


小夜の中山

風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな

この歌は西行みずから生涯最高の歌と自賛しています。

頼朝との会見

この旅の途中、西行は相模の鎌倉を訪れました。

その日、源頼朝は鶴岡八幡宮へお供の侍たちをひきつれて、
参拝していました。見ると、鶴岡八幡宮の楼門のあたりに、
見慣れない僧の姿があります。

いかにも気品にあふれ、ただ者ではない雰囲気を漂わせています。

「はて。どこの名のある御坊であろうか」

頼朝は御家人・梶原景季に命じて、僧の素性をたずねされます。

「鎌倉殿!あのお方こそ、西行法師さまです」

「なに!西行法師さま。は、早くお通ししろ。
御無礼があってはならんぞ!」

西行は、頼朝のもとに通されます。

「西行殿のお噂はかねがねうかがっておりました。
今宵はぞんぶんに、兵法や歌のお話などおきかせ願いたい」

「兵法と申しましても…
鳥羽院の北面をつとめさせていただいたのは、
もう50年も昔になります。兵法といって、 すっかり忘れてしまいました。
また歌と申しましても…ただ見たまま、思うままを言葉にたくす。
それだけでございます」

「西行殿!そうおっしゃらずに!ぜひ!西行殿!」

結局、頼朝が熱心に迫るので西行は夜を徹して語りまくることになりました。

「いやあ素晴らしいお話でした。これはお礼のしるしに」

次の朝、頼朝は西行に銀の猫を下しました。しかし西行は感謝するでもなく、きょとんとして御所を出ていきました。そして通りかかりの子供に、

「おい」「え?なんだい坊さん」

「これ、やる」

「ええっ!?」

「なんだ、いらないのか」
「い、いるよう」

「だったらええっなんて言わないで、
黙ってもらっておけばいいんだ」

すたすたすたと去った…という逸話が有名です。

入寂

その後、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)で暮らしていましたが、病にかかり文治六年2月16日に亡くなりました。

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃

かねて詠んでいた歌の通りの最期となりました。釈迦の入寂が2月15日ですから、正確には1日遅れです。

「ほんとは今日逝く予定だったんだが…
いい天気だし…もう一日伸ばすか。
すみませんお釈迦さま。明日逝きますんで」

縁側に寝そべりながら、そんなことをつぶやいていたのかもしれませんね。

没後に編纂された『新古今和歌集』には最多の94集がとられ、藤原定家後鳥羽院など、後世の歌人たちに強い影響を与えました。

奥の細道 朗読
↑松尾芭蕉『奥の細道』にはあちこちに西行のことが書かれています。

奥の細道 象潟
↑特に象潟と、

奥の細道 全昌寺・汐越の松
↑汐越の松です!

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