嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり 能因法師
あらしふく みむろのやまの もみじばは たつたのかわの にしきなりけり(のういんほうし)
意味
山風が吹き散らした三室山の紅葉葉は、まさに竜田川の錦と言うにふさわしい。
三室山登り口
能因法師の五輪塔
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語句
■錦なりけり 紅葉を美しい錦に見立てたもの。24番菅原道真参照。「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は詠嘆の助動詞。
出典
後拾遺集(巻5・秋下・366)。詞書に「永承四年内裏の歌合にてよめる 能因法師」。
決まり字
あらし
解説
永承四年(1049年)、後冷泉天皇の時代に開かれた大規模な歌合せで詠まれたものです。40番平兼盛41番壬生忠見などが詠まれた天徳内裏歌合せから90年を経たものでした。能因のこの歌は勝利しました。
錦絵のように絢爛豪華な歌ですが、作りすぎな感じもします。あまり評価の高くない歌です。「竜田川」は大和川の上流で、斑鳩の西を流れる紅葉の名所です。在原業平も「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなひに水くくるとは」と詠んでいますね。
「三室山」は竜田川の西に位置する小さな山で別名を神奈備山(かんなびやま)といいます。大和国生駒郡斑鳩町。現在、三室山山頂には五輪塔があり能因法師の供養塔と見られています。「みむろ」「みもろ」は本来「神が降臨してやどる場所」という意味なので「みむろ山」は他にもあります。
「竜田川」は大和国を流れる大和川の上流。やがて大和川に流れ込み、大和川が瀬戸内海に至ります。紅葉の名所として歌枕になっており、三室山の東を流れます。
三室山登り口の案内板
三室山
三室山から竜田川を望む
竜田川
能因法師(988-?)。平安時代中期の歌人。俗名橘永愷(たちばなのながやす)。父は肥後守橘元愷(たちばなもとやす)か?中古三十六歌仙の一人。歌論書『能因歌枕』。清少納言の親戚で、『枕草子』からの影響が見えます。
松尾芭蕉が旅人の大先輩として尊敬していた人物です。『おくのほそ道』には能因法師について多く触れられています。
漢文の素養があり、和歌を藤原長能(ふじわらのながとう)に学び、歌道師承の初例とされます。
その後、文章生となりますが26歳で動機不明の出家をします。はじめ融因、後に能因と名乗り摂津国古曾部(大阪府高槻市)に住んだため古曾部入道とも呼ばれました。
今日こそははじめて捨つるうき身なれいつかはつひにいとひはつべき
(『能因法師集』)
出家した時の心境を詠んだ歌です。
出家後は陸奥・伊予・美作など東北から四国まで放浪し、歌を詠む一方、関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)の殊遇を受けてその邸宅に出入りしていました。
能因と「数寄」
能因は「数寄(すき)」ということを重んじました。「数寄」は後に茶の湯につながっていく概念ですが、もとは歌から始まりました。「数寄」とは、おおざっぱ言えば風流を好むこと。ただし半端な覚悟ではなく、命がけで風流を愛好することです。
藤原清輔による歌論書「袋草子」には能因の言葉として「好き(数寄)給へ。好きぬれば秀歌は詠む(袋草子)」とあります。能因は人によくこう説いたそうです。
能因の数寄っぷりをあらわす有名な逸話があります。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
(都を霞たつ季節に出発したが、陸奥の白河の関にかかった時には秋風がふいていた『十訓抄』十ノ十))。
陸奥の白河の関のことを詠んだ歌です。一説によるとこの歌を都にいながら想像で詠んだといいます。しかし、思いのほかよく出来たので、能因法師は惜しくなってきました。
「うまくできたなあ。この傑作が、想像だけの歌といわれるのは口惜しい。
何とかならぬものか」
そこで能因は奥州に旅立ったという噂を立てて自宅に引きこもり、日光浴で日焼けをしていました。
数ヶ月が経ち、すっかり日焼けした頃、能因は皆の前にふたたび顔を出します。
「やあやあ、皆様お久し振りでざいます。いやー
奥州の旅は大変でした」
そこで能因法師、詠みました。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
(都を霞たつ季節に出発したが、陸奥の白河の関にかかった時には秋風がふいていた『十訓抄』十ノ十))。
そこまでやるなら実際行けばいいだろって気もしますが…
もっとも能因は奥州を訪れた歌を多く残しており、実際に奥州に行っていると思われるので、この話の信憑性は薄いです。
能因の歌によって白川の関は有名となり、後に西行や芭蕉も訪れています。
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり 西行
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曽良
ふし柴の加賀
これに似た話もあります。待賢門院にお仕えする女房に加賀という者があり、ある時歌を作りました。
かねてより思ひしことよふし柴のこるばかりなる嘆きせんとは
はじめからわかりきっていたのに。恋なんてすれば、こりごりするだけだってことは。恋なんて始めからしなければよかった。
ようは、こりごりしているのです。
失恋した女性の気持ちを詠んだ歌です。別に実体験を歌ったわけではなく、想像で作った歌ですが、加賀は考えました。
「なんてうまい歌なのかしら。これが想像だけの歌と思われるのは勿体ないわ。 そうだ。しかるべき男性と恋仲になって、その男性が私に飽きてきて、通ってくるのも希になった頃に書き送れば、きっと相手は感動するに違いないわ。 あわよくば勅撰集に採用されるかも」
その後、加賀は、花園大臣(はなぞののおとど)というたいそう身分ある男性と付き合いはじめます。そして男性の足が遠のいてきたころ、待ちかねたとばかりに、この歌を書き送ります。
相手の男性はたいそう感動し、『千載集』に歌が採用され、その上この歌によって「ふし柴の加賀」と異名を取ることになりました。
能因 雨をふらす
能因法師は歌の持つ超自然的な力を固く信じていました。歌を詠むのは、自然への呼びかけ。神々への訴え。そこには特別な力があると。
能因法師が四国伊予を訪れた時のことです。その頃四国では何日も日照りが続き、作物は枯れ、人々は喉が渇き、たいへんなことになっていました。
じりじりと照りつける太陽。能因さま、何とかなりませんか。能因さま助けてください。…せがむ村人たち。そこで能因法師は、土地の大三島明神に参詣し、大空を仰ぎながら、詠みます。
天の川苗代水に堰下せ天降ります神ならば神
ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ…
ざぁーーー
たちまち雨が降りだし、三日三晩降り続け、土地の人びとは大助かりし、能因法師さま、ありがとうごぜえます。能因法師さま、ありがとうごぜえます、
いくら感謝してもしたりなかったということです。
後年、西行法師が待賢門院の女房をともなって吹上和歌浦を訪ねていった時のことです。和歌の浦は有名な歌枕です。しかし、あいにくの暴風雨となりました。
「せっかくいい景色を御覧にいれようと思ったのに…。
いや、その昔、能因法師さまは、歌の力で雨をふらせたという。
ならば逆に雨を止めることもできるはず」
西行はそこで二首の歌を詠みました。
天降る名を吹上の神ならば雲晴れ退きて光あらはせ
(天から下ってきたという吹上の名を冠せられる神よ、 その名のとおり、雨雲を吹上て、光をあらわしてください。
苗代に堰き下されし天の川とむるも神の心なるべし
(能因法師の歌によって雨をふらせた天の河の水を、 今度はせきとめてほしいのです。それをするのも、神の力でしょう)
あれほど激しかった雨はすっとやみ、雲間に太陽が顔を出しました。