瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院

こんにちは。左大臣光永です。
昨日は雨の中、池袋に出たんですが、
宝くじ売り場にズラーーッと人が並んでいたのが壮観でした。
この時期の風物詩ですね。私は一生、絶対買わないですが、
あの行列を見るのは、季節を感じるので、好きです。

さて年末の恒例として百人一首の話題をお届けしています。
本日は、77番・崇徳院の歌です。


http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/uta77.mp3

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
崇徳院

(意味)
川の流れが速いので、岩にせき止められた滝のように流の速い水が、いったんは別れ別れになっても末には一つになるように、あなたと離れ離れになってもまたいつか再会したいと思います。

歌の解説

一字決まりの札「むすめふさほせ」の一枚として有名です。
最初の「せ」が聞こえた時点で、
ものすごい勢いで札を取らないといけません。

人と別れる時の歌ですね。
あなたとは離ればなれになってしまうけど、
きっとまたいつか再会しようという。

恋人と別れる時かもしれないし、
友人との別離。家族との別離。
身近な別れを思い浮かべながら読んでみると、
ますますいっそう、染み渡る歌です。

または人間関係というよりも、人生の状況というか、
つらい時期にいる時。今は苦しいけど。きっといつか、
巻き返すぞという思い。たとえばけっこういい企業に
努めていたのに、リストラされて、再就職のために
がんばっている。コンビニでバイトしながら、再就職をめざしている。
そんな時、ふっと口ずさんでください崇徳院の歌を。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末に会はむとぞ思ふ

ぐわっと力がわいてくるじゃないですか。

崇徳院は1142年ごろ
13人の歌人に百首ずつ歌を提出するようお命じになり、
自らも歌を入れられました。
歌集は久安六年(1150年)に完成。
これを「久安百首」といいます。

百人一首に採られたこの歌は久安百首のうちの一首で、
はじめの案では

ゆきわかれ 岩にせかるる滝川の
 われても末に 逢はむとぞ思ふ

でした。

これが後に『詞歌集』に採用される時に
百人一首の形「瀬をはやみ」になりました。

もとは激しい恋の歌だったのが、
『詞歌集』では恋という要素は薄まっています。

むしろ崇徳上皇が保元の乱に敗れて讃岐に流された。
その悲劇的ご生涯を重ね合わせて詠みたくなる歌です。

崇徳院が讃岐に流されたのは
この歌をお詠みになって16年後のことであり、
もちろん崇徳院はご自分の実体験を詠まれたわけではありません。

しかし崇徳院が讃岐に島流しになった、
その悲劇の御生涯を知る後世の我々としては、
どうしても歌と歴史を重ねあわせて詠みたくなってしまいます。

「瀬をはやみ」は「瀬の流れが速いので」という原因をあらわしています。
1番天智天皇の「苫をあらみ」とも共通する表現です。

「滝川」は「滝」ではなく、流れの速い、急流のことです。

作者 崇徳院

崇徳院は元永二年(1119年)
鳥羽天皇の第一皇子としてお生まれになり
顕仁親王とおっしゃいました。

顕仁親王が生まれた当時は白河法皇の権力の絶頂期で、
鳥羽天皇も好きにふるまえませんでした。
ことごとに、祖父である白河法皇が
政治にちょっかいを出してきます。

その上、顕仁親王は実は鳥羽天皇の実の子ではなく、
妻である待賢門院と祖父である白河法皇との間の
不倫の子だったとも伝えられます(『古事談』)。

鳥羽上皇が生涯にわたり
息子である顕仁親王=崇徳天皇を憎みつつげたのも、
そのためとも言われます。

一方、白河法皇も顕仁親王が自分の子と知ってか、
ことごとに顕仁親王をかわいがり、
1123年、顕仁親王5歳の時に21歳の鳥羽天皇を強引に退位させます。
崇徳天皇の誕生です。

鳥羽天皇としては、まだまだこれからという時に
強引に退位させられて、おのれという憎しみがつのるわけです。

1129年、白河法皇が崩御すると、
鳥羽上皇の復讐がはじまります。

鳥羽上皇は崇徳天皇が院政を行う権利を奪うため、
1142年、崇徳の腹違いの弟であり養子でもある
体仁親王を近衛天皇として即位させ、
近衛天皇が1155年に17歳で亡くなると、
今度は崇徳の実の弟である雅仁親王を
後白河天皇として即位させます。

1156年鳥羽上皇が没すると、
後白河天皇と崇徳上皇方に後継者争いが起こります。
これに摂関家の内部分裂がからみ、
後白河天皇は藤原忠通と結び、崇徳上皇は忠通の弟頼長と結び、
それぞれ源平の武士を招集して、武力衝突に至りました。
1156年保元の乱です。

結果は後白河天皇方の勝利に終わり、
藤原頼長は戦死。敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、
9年の後に失意のうちに没しました。

死後怨霊になった、皇室を呪いつつ死んでいったなど、
『保元物語』や江戸時代の小説『雨月物語』の中に語られました。

慶応4年(1868年)、明治天皇は
京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設し、
崇徳院の魂を讃岐からお迎えしました。

崇徳院の御魂は、実に700年の時を経て、
都に戻ることになったのです。

崇徳院を祀った京都白峯神宮
崇徳院を祀った京都白峯神宮

崇徳院を祀った京都白峯神宮
崇徳院を祀った京都白峯神宮

白峯神宮は蹴鞠の大家であり
百人一首にも歌を採られている飛鳥井雅経の館跡に建てられました。
藤原仲麻呂の乱に敗れて淡路島へ流された淳仁天皇が、
崇徳院とともに、合祀されています。

また蹴鞠…ということで、
白峯神宮はボールに関係が深い神社です。
そのためサッカー選手の聖地となっています。
漫画「キャプテン翼」の作者高橋陽一先生のサインが貼ってありました。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

明日も百人一首の解説をお届けします。