瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院

せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう (すとくいん)

意味

川の流れが速いので、岩にせき止められた滝のように流の速い水が、いったんは別れ別れになっても末には一つになるように、あなたと離れ離れになってもまたいつか再会したいと思います。

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語句

■瀬をはやみ 川の流れが速いので。「~を~み」は「~が~ので」。 ■せかるる せきとめられる。動詞「堰(せ)く」の未然形+受け身の助動詞「る」の連体形。 ■滝川の 「滝川」は滝のように流の速い川。滝ではない。ここまで「われても」を導く序詞。 ■われても 川の流れが二つに分かれてもの「分れる」と、男女が別れる「別れる」の掛詞。 ■逢はむとぞ思ふ 別れた川の流れが再び合流する「合う」と別れた男女が再び「逢う」の掛詞。

出典

詞歌集(巻7・恋上・229)「題しらず 新院御製」。

決まり字

解説

一字決まりの札「むすめふさほせ」の一枚として有名です。最初の「せ」が聞こえた時点で、ものすごい勢いで札を取らないといけません。

崇徳院は1142年ごろ13人の歌人に百首ずつ歌を提出するようお命じになり、自らも歌を入れられました。歌集は久安六年(1150年)に完成。これを「久安百首」といいます。

百人一首に採られたこの歌は久安百首のうちの一首で、はじめの案では「ゆきわかれ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」でした。

これが後に『詞歌集』に採用される時に百人一首の形「瀬をはやみ」になりました。もとは激しい恋の歌だったのが、『詞歌集』では恋という要素は薄まり、むしろ崇徳上皇が保元の乱に敗れて讃岐に流された。その悲劇的ご生涯を重ね合わせて詠みたくなる歌となっています。

崇徳院が讃岐に流されたのはこの歌をお詠みになって16年後のことであり、もちろん崇徳院はご自分の実体験を詠んだわけではありません。

しかし崇徳院の悲劇の御生涯を知る後世の我々としては、どうしても歌と歴史を重ねあわせて詠んでしまいそうになります。

語句として注意すべきは初句の「瀬をはやみ」です。「瀬の流れが速いので」という原因をあらわしています。1番天智天皇の「苫をあらみ」とも共通する表現です。

「滝川」は「滝」ではなく、流れの速い、急流のことです。

崇徳院は元永二年(1119年)鳥羽天皇の第一皇子としてお生まれになり顕仁親王とおっしゃいました。顕仁親王が生まれた当時は白河法皇の権力の絶頂期で、鳥羽天皇も好きにふるまえませんでした。ことごとに、祖父である白河法皇が政治にちょっかいを出してきます。

その上、顕仁親王は実は鳥羽天皇の実の子ではなく、妻である待賢門院と祖父である白河法皇との間の不倫の子だったとも伝えられます(『古事談』)。鳥羽上皇が生涯にわたり息子である崇徳天皇を憎みつつげたのも、そのためとも言われます。

一方、白河法皇も顕仁親王が自分の子と知ってか、ことごとに顕仁親王をかわいがり、1123年、顕仁親王5歳の時に21歳の鳥羽天皇を強引に退位させます。こうして誕生したのが崇徳天皇です。

しかし1129年に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の復讐がはじまります。崇徳の腹違いの弟であり養子でもある体仁(なりひと)親王を近衛天皇として即位させ(1142年)、近衛天皇が1155年に17歳で亡くなると、今度は崇徳の実の弟である雅仁親王を後白河天皇として即位させます。

1156年鳥羽上皇が没すると、後白河天皇と崇徳上皇方に後継者争いが起こります。これに摂関家の内部分裂がからみ、後白河天皇は藤原忠通と結び、崇徳上皇は忠通の弟頼長と結び、それぞれ源平の武士を招集して、武力衝突に至りました。1156年保元の乱です。

結果は後白河天皇方の勝利に終わり、藤原頼長は戦死。敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、9年の後に失意のうちに没しました。死後怨霊になった、皇室を呪いつつ死んでいったなど、『保元物語』や江戸時代の小説『雨月物語』の中に語られました。

慶応4年(1868年)、明治天皇は崇徳院の魂をお迎えして京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設されました。

白峯神宮は蹴鞠の大家であり百人一首九十四番に歌を採られている飛鳥井雅経の館跡に建てられました。藤原仲麻呂の乱に敗れて淡路島へ流された淳仁天皇が、崇徳院とともに、合祀されています。

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