世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣

よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのおぶねの つなでかなしも (かまくらのうだいじん)

意味

世の中は常に変わらずにあってほしいなあ。漁師の小舟が綱に引かれていく、その景色の愛しさよ。

鎌倉 由比ガ浜
鎌倉 由比ガ浜

鎌倉 由比ガ浜
鎌倉 由比ガ浜

語句

■常にもがもな 常に変わらずにあってほしいなあ。「常に」は形容動詞「常なり」の連用形。永久不変であること。「もがも」は願望の終助詞。「な」は詠嘆の終助詞(ほかに願望の終助詞「もが」+詠嘆の終助詞「も」「な」という説も)。 ■あま 漁師。 ■綱手 舟の舳につけて、舟をひっぱるための綱。 ■かなしも 愛しいことよ。「かなし」は形容詞「かなし」の終止形。形容詞「かなし」は、愛しい、悲しいの二つの意味があるが、ここでは前者。「も」は詠嘆の終助詞。「もがもな」も「かなしも」も古風な表現。

出典

新勅撰集(巻8・羈旅・525)詞書に「題しらず 鎌倉右大臣」。『金槐集』にも。

決まり字

よのなかは

解説

目の前の何気ない日常の風景。淡々とした景色。それこそが愛しい。千年万年と続いてくれよということです。実朝の経歴をふまえて考えると、しみじみ胸に迫る歌です。

作者 鎌倉右大臣

源実朝(1192-1219)。鎌倉幕府第三代将軍。源頼朝の次男。母は北条政子。幼名千幡。1203年、兄頼家が北条氏によって殺害されると跡を継いで12歳で征夷大将軍に就任。この時後鳥羽上皇から実朝の名を賜ります。

「次は私も殺される…」実朝にそんな暗い気持が起こったことは想像にかたくありません。そのせいか、あるいはもともとの気質だったのか、政治には関心がうすく、もっぱら歌や蹴鞠など、京都風の公家文化に傾倒します。

和歌を藤原定家に師事し、できたばかりの『新古今和歌集』を京都から取り寄せ読みふけり、歌つながりで飛鳥井雅経を重用し、雅経の推挙で『方丈記』の作者鴨長明と会見しました。

政治の実権は北条時政が握っており、実朝には実権は無くお飾りにすぎませんでした。時政は敵対する畠山重忠らを粛清(1205年畠山重忠の乱)しつつ勢力を増していきます。

1205年、義政の跡を継いで執権となった息子の義時は関東の大勢力である和田義盛を粛清し(1213年和田合戦)。義盛が就任していた侍所別当の地位を奪い、北条氏による執権政治の基礎を固めます。また、実朝に跡取りが生まれないため、将来皇族から将軍を迎える計画を推し進めます。

実朝はもはや政治の世界で力をふるえないことを理解しており、その不満を補うように和歌・管弦・蹴鞠などの京都風の文化に傾倒していきます。夫人も京都から迎え、右大臣への昇進に固執します。実朝のこうした動きに、御家人たちの信頼は離れて行きます。

治世の後半には奇行も目立ってきます。1217年、東大寺の大仏再建に功績のあった宋人陳和卿(ちんなけい)が鎌倉を訪れ、実朝と会見します。実朝の顔を見るなり、陳和卿ははらはらと涙を流しました。

「ど、どうしたのじゃ」

「将軍さま、間違いございません。
あなたの前世は、宋国医王山(いおうんぜん)の長老です。
私は、その方にお仕えしていたのです」

「まさかそんな…はっ!そういえば」

実朝は、五年前に夢の中で高貴な僧に同じことを言われたのでした。しかも、その夢の話は誰にも話していません。

「では、あれは真実だったか!」

実朝はよよと泣き崩れ、以後陳和卿の言うことは何でも聞くようになりました。とうとう、「宋国にわたる」と言い始めます。

「陳、私のために船を造ってくれるか?」

「ははっ。お任せください」

5カ月にわたる作業の末、由比ヶ浜に、巨大な舟が完成しました。

「ひっぱれー」

作業員が、いっせいにひっぱります。

「うー、ううーー…」

しかし、ぜんぜん動きません。実朝もそばで見ています。

「どうした?船は、動かぬのか」

「ひっぱれー」

「うー、ううーー…」

作業員たちは、真っ赤になって船を引っ張りますが、船はビクともしませんでした。 結局、船は由比ヶ浜に放置されました。

こんな奇行もあって、御家人たちの気持はいよいよ実朝から離れて行きます。

実朝は陳和卿の言葉に感激し、和卿に命じて大船を造らせます。完成した大船を由比ヶ浜に浮かべようとしますが、船は海に浮かばず、砂浜で朽ち果ててしまいました。しかしその後も実朝は御家人葛山景倫(かづらやまかげとも)を宋国に派遣しようとしたり、宋に仏舎利を求めたりしたと伝えられます。

一方、後鳥羽上皇は実朝が京都の文化に心を寄せていることを利用して、幕府を抑え込もうとします。実朝もこれに乗り気でした。「山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我あらめやも」の歌は、実朝の後鳥羽上皇への忠誠をしめしています。

しかし朝廷と幕府による土地の二重支配はそもそも、はじめから矛盾をはらんでおり、両者の確執は日に日に高まっていきます。

後鳥羽上皇は次第に討幕の意識を高めていく中、1218年12月、実朝に右大臣の位を贈ります。武士の家系として右大臣への昇進ははじめてのことでした。それにしても昇進にこだわりすぎる。少し抑えたほうがよろしいのではと、周囲の者がいさめます。

その時実朝は答えました。「どうせ源氏の血筋は私の代で途絶えるのだ。せめて官位くらいは目いっぱい上げておきたい」。

1219年正月、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式が行なわれました。その時、物陰から飛び出してきた甥の公暁によって暗殺されました。28歳の若さでした。ここに源氏三代の血筋は途絶えました。実朝殺害後、実朝の室は出家。御家人ら100余人も出家しました。

幸うすき人物ですが、歌はガッシリと力強い、生命力に溢れた歌が目立ちます。

ものゝふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

歌人としては実朝は18歳で藤原定家に師事。定家は実朝に著作『詠歌口伝』を与え、また相伝の『万葉集』を贈ります。定家と実朝はついに直接会うことはありませんでしたが、実朝は定家の指導のもと『万葉集』『新古今和歌集』を熱心に研究し、独自の歌風を確立しました。家集『金槐和歌集』に実朝の歌は700首あまり収められています。

近世に入り賀茂真淵、正岡子規、斉藤茂吉など万葉調を好む歌人らから実朝の歌は高く評価されました。特に正岡子規は著作『歌よみに与ふる書』の中で、実朝の歌は山と高きを競い日月と光を競い、とにかく素晴らしいという意味のことを書いて絶賛しています。

「鉄道唱歌」には、「八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(おおいちょう) 別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此陰よ」と、実朝暗殺事件のことが歌われています。

太宰治は昭和18年発表の小説「右大臣実朝」の中で、実朝の付き人の立場から実朝像を描き出しました。鴨長明も登場します。