これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸

これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おうさかのせき (せみまる)

意味

これがまあ、旅立つ人も旅から戻ってくる人も、いったん別れてはまたここで会う、知る人も知らない人も、ここで出会う、そういう場所、その名も逢坂の関なのだ。

逢坂山関址
逢坂山関址

嵯峨野の歌碑
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語句

■これやこの これがあの(世の中で有名な)。 ■や 感動・詠嘆の間投助詞。 ■行くも帰るも 行く人も帰る人も。いずれも連体詞で下に「人」を補って考える。
■別れては 「ては」は動作の反復。下の「逢う」に係り、別れては逢い、逢っては別れることが繰り返されるの意。『後撰集』『百人秀歌』では「別れつつ」。 ■知るも知らぬも 上の「行くも帰るも」と同じ用法で、「知る人も知らない人も」

後撰集(巻15・雑1・1089)「逢坂の関に庵室(あんじつ)を造りて住み侍りけるに、行きかふ人を見て 蝉丸」。

決まり字

これ

解説

これがまあ、京を出ていく人も、京に帰ってくる人もここでまた逢う。知っている人も知らない人もここで逢う。その名も、逢坂の関なのだ。「行くも帰るも別れては」が「あふさかの関」の中の「あふ」にかかり、「知るも知らぬも」も「あふ」にかかります。「も」の音の繰り返しによってリズムが生まれています。

「逢坂の関」は近江(滋賀県)と山城(京都)との境にある逢坂山の南の峠に設けられた古代の関所です。逢坂の関を超えると東国とされました。

三故関
三故関

伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関と並んで、三故関と称されます。大化の改新翌年の詔で設置されたと見られていますが、詳しいことはわかりません。

関所が廃止された後も歌枕として残り続けました。「逢う」という言葉と掛詞にされることが多いです。62番清少納言にも逢坂の関が詠みこまれています。25番三条右大臣には逢坂山の地名が出てきます。

作者 蝉丸

蝉丸。実在も生没年もハッキリしない伝説的な人物です。宇多天皇第八皇子敦実親王に仕えた雑色とも、醍醐天皇第四皇子とも伝えられます。

逢坂山の関のそばに庵を作って住んでいた盲人で琵琶の名手だったといいます。盲人ではなく単に乞食だったとも言います。

『今昔物語』には管弦の名人源博雅が蝉丸の庵に三年間通って曲を立ち聞きし、ついに「流泉」「啄木」の秘曲を会得した逸話が記されます(『今昔物語集』巻第24 第23話)。同様の逸話は『平家物語』「海道下」にも見えます。

一方、『平家物語』にも博雅と蝉丸の逸話が引用されています。

平清盛の五男、平重衡は清盛の命令で奈良(南都)を攻撃します。その際、興福寺・東大寺という寺社を焼き討ちにし、しかも東大寺の大仏まで焼いてしまいます。

これによって重衡は「仏敵」として寺社勢力から激しく憎まれるようになりました。

そして源平の合戦が始まります。摂津一の谷の合戦で重衡は生け捕りになり、京都まで連れてこられます。そして鎌倉の源頼朝と対面すべく、車に乗せられた重衡は梶原景時の護衛のもと、一路東海道を京都から鎌倉へ下ります。

その道すがら、東海道沿いのさまざまな気色や地名を詠みこんだ「海道下」という章があります。リズムのいい韻文で書かれています。

重衡一行が京都粟田口を出て東へ向かい四宮河原(山科のあたり)に かかった頃、博雅と蝉丸の話が引用されます。

四宮河原
四宮河原

四宮河原になりぬれば、ここは昔延喜第四の皇子蝉丸の関の嵐に心をすまし琵琶を弾き給ひしに、博雅の三位といっし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三年が間歩みを運び立ち聞きて、かの三曲を伝へけん、藁屋の床のいにしへも思ひやられて哀れなり。

世阿弥作の能「蝉丸」は蝉丸の説話に基づき、姉の逆髪というキャラクターを創作しました。盲目のため逢坂山に捨てられた醍醐天皇第四皇子蝉丸。蝉丸の姉であり髪が逆立つ奇病がある第三皇女逆髪。

姉逆髪が狂い出て弟蝉丸を訪ねていき、やがて琵琶の音に導かれて再会を果たすという筋書きです。

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