花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに 小野小町

はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに (おののこまち)

意味

美しかった花の色も空しく色あせてしまったのですね。長雨が降るのを物思いにふけって眺めているうちに、私の容貌もすっかり衰えてしまいました。

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語句

■花 文字通りの花のほか、女の美貌を指していると考えられる。 ■ふる 「雨が降る」の「降る」と「年を経る」の「経る」を掛ける。 ■ながめ 「長い雨」の「長雨」と「ぼんやり物思いに沈む」という意味の動詞の「ながめる」を掛ける。■世にふる 「世」は「男女の仲」を指す場合もあるので、男の訪れが絶えて恨んでいる女の歌とも取れる。

出典

古今集(巻2・春下・113)。

決まり字

はなの

解説

今を盛りと咲いていた花も、しとしと降りしきる長雨の中で、色あせていく。縁側に立って、それを見ている小野小町。はあ…あの花の色のように、私も年老いていくのね、といった内容です。

下の句には技工をこらしてあります。「ふる」には「雨が降る」の「降る」と「時が経つ・年をとる」という意味の「経る」が掛詞になっており、「ながめ」には「長い雨」という意味の「ながめ」と、「ぼんやり物思いに沈む」という意味の「ながめる」が掛詞になっています。

しかし、そうした技巧を抜きに読んでも十分に美しく、雰囲気のある歌です。

小野小町は平安時代仁明天皇の頃、宮廷に仕えていたと言われる女流歌人です。クレオパトラ・楊貴妃とならび世界三大美女の一人に数えられます。

六歌仙・三十六歌仙の一人で出羽国の郡司良真の女、11番小野篁の孫、美材(よしき)・好古(よしふる)らの従妹といいますが、実名も生没年もわかっていません。

はっきりしていることは大変な美人だったことと、歌が得意だったことのみです。『古今集』には小野小町が17番在原業平22番文屋康秀12番僧正遍正ら取り交わした贈答歌18首が残っています。

「小町」の名は姉が小野町(おののまち)で妹が小野小町といったという説や、固有名詞ではなく小野氏出身の采女(うねめ 天皇や皇后のおそば仕える女官)を指す総称で、小町は複数いたなど、諸説あります。

秋田で生まれたということは定説になっていますが、実際はよくわかりません。なにしろ私の実家の熊本にも小野小町が生まれたという場所があります。お米の「秋田小町」や新幹線の「こまち」などは小野小町にゆらいします。

勅撰集には『古今集』18首、『後撰集』4首以下全60数首が採られていますがすべて小野小町作というわけではなく、他人のものや伝説的なものも多いです。

歌は恋愛の歌が大半を占め、その中でも特に「夢」を歌ったものが多いです。以下の歌は長く親しまれてきました。

うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめてき
(うたた寝に恋しい人を見てからというもの、夢などというものを
頼りにするようになりました)

思ひつつぬればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを
(あの人のことを思いながら寝たのであの人が夢に出てきたのでしょうか。 夢とわかっていれば目覚めなかったものを)

「よき女のなやめる所あるに似たり」

>紀貫之は『古今集』仮名序で小野小町の歌をこう評しています。
いい女が悩ましげにしているような感じだ。うまいこと言いますね。

小町伝説(一) 深草少将の百夜通い

美人で一切の経歴は謎となると後世の人々の想像力を刺激せずにはいませんでした。小野小町は在原業平と対をなす女性として多くの伝説を生みました。

小野小町はたくさんの男性に言い寄られたようですが中でも
「深草少将(ふかくさのしょうしょう)の百夜(ももよ)通い」
の話は有名です。

小野小町に思いを寄せ、手紙を出す深草少将に、
小野小町は返事を返します。

「そんなに私が好きなら100日通い続けてください」
「わかりました」

深草少将は深草から小町のすむ小野の里まで
毎晩5キロの道のりを通いました。京都市伏見区伏見稲荷のあたりから、山科のほうまです。

小野小町は深草少将が毎晩届ける榧(かや)の実で、
通った数を数えていました。

「ひい、ふう、みい…。今夜がいよいよ100晩目。
来るかしらあの方は」

しかし、その夜は吹雪でした。深草少将の体に、
容赦なく雪が降りかかります。凍えるような寒さです。

「いやいや、寒さなどに負けられぬ。
この道をまっすぐ行けば、ようやく小町に会えるのだ。
なんと長かったことか」

雪で視界はくもり、体の芯まで凍てつくようです。
いや、ここが頑張り所だ。勝負のしどころだと、少将は歩いていきます。

ザクザクと雪を踏んで歩いていくうちに、
体の感覚がなくなってきます。

(小町と契るのだ。小町と契るのだ…)

ザクザク、

ザクザク…

ううう、ぶるぶる

どさっ…

とうとう行き倒れになってしまいました。

小町とは契れずじまいです。

小町はさすがにヒドイことしちゃったわと後悔したか、
根性ないわねフフンとせせら笑ったかは定かでは無いですが、
小町は後に供養のため榧の実を小野の里に撒いたといいます。京都市山科区の随心院にこの話が伝わります。

この話は落語になっています。いよいよ99晩目というその夜、小野小町は思いました。「ここまで通い続けてくれたんだから、一晩くらいオマケしてあげるわ」からっ、「いらっしゃい」招き入れようとすると、「いえ、私は日雇いです」

在原業平が東下りをして、陸奥の国八十島に宿を取りました。

「お客様、この土地はかの小野小町の終焉の地ですよ」
「ほう、あの小町の。それは興味深い」

その夜、在原業平が休んでいると、
かすかな歌が聞こえてきます。

秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

(面妖な…)

次の日、在原業平が声が聞こえたあたりを調べてみると、
髑髏が転がっており、目のくぼみから草が生えていました。

「あなめあなめ…そうか。ああ目が痛いと
いっていたのだな。哀れなことよ」

業平は涙を流し、

小野とはならず薄生ひけり

下の句をつけて、供養としました。

雨乞い小町

京都の神泉苑で小野小町が雨乞いをした話が伝わっています。

ああ…日照り続きだ。こう雨が降らないと、やってられない。
穀物も枯れる。そんな時、わかりました。私がやってみましょうと
神泉苑を訪れた小野小町が詠みました。

ことわりや 日のもとならば照りもせめ
さりとてはまた あめが下とは

なるほど道理ですね。日本のことを日のもとというから
日照り続きなのは。しかし、そうはいっても
天下のことを天の下とも言うじゃないですか。
それならば、雨をふらしても、いいわけですわ。

すると、神泉苑の池の主である龍が、
うむ。なるほど。さすがは小野小町。
ザザーーと雨が降ってきた、という話です。

また、小町の家集には雨乞いの歌として、

ちはやぶる 神も見まさば 立騒ぎ
あまのとがはのひぐちあけ給へ

神よ御覧になっていますなら、この日照り続きの大変なさまに
心を動かして、天の川の樋口を開け給え。

という歌が伝わっています。

こういった小町伝説は諸国を渡り歩く巫女や比丘尼といった女たちによって語り継がれ、後々それが謡曲に、能に歌舞伎に転じていったと考えられます。

小町の晩年の落ちぶれ果てた姿を描く「卒塔婆小町」や
「関寺小町」、「鸚鵡小町」などの小野小町伝説に基づく謡曲七作品を「七小町」といい、またそれに基づく能・浄瑠璃・歌舞伎などもあり一つのジャンルを形成しています。

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