夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く 大納言経信

ゆうされば かどたのいなば おとづれて あしのまろやに あきかぜぞふく (だいなごんつねのぶ)

意味

夕方になると、門前の田の稲の葉がそよそよと音を立てて、この侘しい茅葺の家に秋風が吹きつける。

語句

■夕されば 夕方がくると。「さる」は来る、なる、の意。 ■門田 家の前の田。「山田」の対になる語。 ■おとづれて 音をたてて。「訪れる」の意味もあるが、本来は「音をたてて」。 ■葦のまろや 葦で屋根をふいたわびしい建物。ここでは源師賢の山荘を指すか。貴族の別荘なので、それほどわびしいわけはないが、雰囲気を重んじている。 ■吹く 「ぞ」の結びで連体形。

出典

金葉集(巻3・秋・再奏本173、三奏本164)。詞書に「師賢(もろかた)の朝臣の梅津に人々まかりて、田家秋風(でんかのあきかぜ)といへることをよめる 大納言経信」。

決まり字

ゆう

解説

一族の源師賢の梅津の別荘にて「田家秋風(でんかのあきかぜ)」という題で詠まれた歌です。梅津は現在の京都市右京区梅津。桂川の東岸一帯です。貴族たちの別荘がありました。「夕されば」は聞きなれない言葉ですが、「夕方が去って夜になること」ではなく、「夕方がくると」という意味です。

藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里」が秀歌として知られています。

「おとづれて」は「訪れる」と誤解しがちですが、ここでは稲穂が風に吹かれてサワサワと音を立てている様子です。何のてらいも無い、わびしい秋の情緒が伝わってくる歌です。

作者 大納言経信

大納言経信。源経信(1016-1097)。宇多源氏の出。詩歌管弦漢詩すべてにすぐれた貴公子であ藤原公任と並び賞されました。有職故実にも詳しかったです。最終官位は正二位大納言。桂の里に別荘があったので桂大納言とも言われました。晩年は大宰権師(だざいのごんのそち)として大宰府で没しました。

『後拾遺集』から歌を削る

『後拾遺集』が編纂された時、経信卿の以下の歌が入っていました。

大堰川岩波高し筏師よ 岸の紅葉にあからめなせそ

(大堰川は岩にあたる波が高い。筏師よ、岸の紅葉によそ見するなよ。「あからめ」はよそ見)

しかし経信卿はあえてこの歌を削らせました。「あれは無下の捨て歌です」といって。

しかし、そうはいっても良い歌だったので、遥か後年、源俊頼がこの歌を金葉集に入れました。

君が代の歌

承暦2年(1077年)白河天皇の時代。経信が歌合の席で詠みました。

君が代は尽きじとぞ思ふ神風や 御裳濯川(みもすそがわ)のすまん限りは

(わが君の治世は、いつまでも尽きることなく栄えるでしょう。ああ神風よ。御裳濯川がこんなにも澄んでいる限りは。「御裳 濯川」は伊勢の五十鈴川)

その後、ある人の夢に唐装束を着た女たちがあらわれこの歌を吟じて言いました。この歌によって帝王の御寿、つまり寿命が延 びましたと。

その言葉どおり、白河院は77歳の長寿を保たれたのでした。

三船の才

また承保3年10月、白河院が大堰川に行幸した時、漢詩・和歌・管弦の三つの舟を浮かべて、それぞれの道に長じた人を乗せて 披露させていた時、経信卿が遅れて参上しました。

「なに、経信はいまごろ参ったのか。気がきかぬ」

白河院はご機嫌が悪くなりましたが、しばらくお待ちになっていました。

ところが経信は漢詩・和歌・管弦すべてに通じていたので、川の汀でひざまづいて得意げに声を上げます。

「どの舟でもお寄せください。私は、ぜんぶ大丈夫です」

と。もちろんこれが言いたくて、わざと遅れてきたのでした。まず管弦の船に乗り、つづいて和歌・漢詩の船にも乗って作品を 披露しました。

大納言公任も三つの船に乗ったことがあるので、世に公任・信経両名を「三船の才」と言うようになりました。

琵琶の優劣

また経信卿は管弦の道にも優れていました。それである時白川院が経信を召して、琵琶の名器たる玄象(げんじょう)と牧馬( ぼくば)を取り出して、まず経信に牧馬を弾かせてお尋ねになりました。

「この二つの琵琶、どちらが優れておろうか」

経信が申し上げました。

「昔、一条院は源信明(さねあきら)・信義(さねよし)兄弟をお召しになり、この二つの琵琶を試みに弾かせなさいました。 兄信明は玄象を弾き、弟信義は牧馬を弾きました。しかし牧馬のほうがよく聞こえたので、再び両人を入れ替えてお弾かせになり ました。すると今度は弟の弾く玄象のほうがよく聴こえたのです。なので、器物の勝り劣りではありません。弾く人の巧拙による のです」

なるほどと今度は経信に玄象を弾かせてみたところ、果たしてその言葉通り、勝り劣りは無かったので、白河院は大いに感心さ れました。

調べ得ぬ琵琶

また経信がある人に語って言うことに、

「玄象という琵琶はいくら調べようと(奏でようと)しても調べられない時がございます。日によっても調べ得ない日というも のがあり、そういう日は、琵琶のご機嫌が悪いのだと古人が申しております。

我ら、白河院の御遊にお供をいたしました時、玄象を弾きましたが、呂の音から律の音に調べなおす時、音が出なくなり、うま く弾くことができませんでした。古人の言うことは本当でした」

詩を詠じる鬼

経信卿が八条わたりに住んでいた頃、九月の月の明るい晩、空をながめて物思いにふけっていると、ほのかに砧の音が響いてき ました。

「ほう。九月の夜に砧の響きとは。まことに時にかなって
風流なこと」

そう思った経信卿は歌を詠みました。

唐衣打つ音聞けば月清み まだ寝ぬ人を空に知るかな

(唐衣を打つ音を聞くと月が清らかなので、まだ寝ていない人があることを、それとなく知ることよ)

すると前の植え込みのほうから声が響いてきます。

北斗星前横旅雁
南楼月下擣寒衣

北斗星前 旅雁 横たはり
南楼月下 寒衣を擣つ
(ほくとせいぜん りょがん よこたはり
なんろうげっか かんいをうつ)

詩の文句を、実に見事に詠じるのでした。

「うーん風流なことよ。いったい誰であろうか」

経信がふと見たところ、身の丈一丈(3メートル)もあろうかという
人影が、髪の毛は逆さまに生えて、顔を真っ黒に被っていました。

「ひいっ!ことは、何としたことじゃ。
八幡大菩薩よ助けたまえ!」

必死に祈る経信。そのうちに化け物はすーーとかききえました。特に祟りを為すこともありませんでした。

おそらく羅生門に棲む鬼の仕業と思われます。羅生門の鬼の中には風流を愛する者もいて、この話のように詩を吟じたりもした のでした。

この詩歌はともに藤原公任卿の朗詠集に入っていたので、鬼は歌をきいて詩を詠じて応えたのでした。

声澄みて北斗にひびく砧哉 芭蕉

高麗との外交事件

承暦4年(1079年)高麗王文宗が悪瘡をわずらい、日本の名医丹波雅忠(たんばのまさただ)を寄こしてほしいと書状を送って きました。雅忠は後漢の霊帝の末裔とも言われ、医術にすぐれた人でした。高麗王は雅忠の医術にすぐれていることを聞いて王則 定(おうそくてい)という商人に書を持たせて大宰府によこしました。

書中には「奉聖旨訪問貴国(せいしをほうじて、きこくをほうもんす)」とありました。しかしこれは皇帝が臣下に送る書状の 形式で、礼を欠いたものでした。

「さてどうしたものか」

朝廷ではさまざまに評議が行われますが、遅れて参上した経信が言いました。

「高麗王が悪瘡を病んで死ぬことはわが国の利益になります」

経信の言葉によって雅忠を派遣しないことに決まりました(承暦3年(1079年) 医師招請事件。ただし実際の発言は源俊実) 。

狐を射るのは罪か?

またある所にヤカンをご神体とする社があり、その社のほとりで狐を射たものがありました。この者に罪があるか無いかで朝廷 では議論になります。何しろしかるべき神様の化身かもしれないのです。

大臣公卿さまざまに議論を行う中、経信は言いました。

「たとえどんな霊験あらたかな神であろうと狐の姿で走り出たものを射るのに、何の罪があるでしょう。唐土に白竜魚服の故事 がございます。竜が魚の姿になって波にたわむれていた所、漁師が網を引いていたのに引っかかってしまいました。竜はなんとか 難を逃れて大海に戻り、竜王に訴えました。あの者は非道です。竜を捕らえるとは何と無礼な。すぐに天罰を下してくださいと。

その時、竜王は何と答えたと思いますか皆さん。お前はどうして魚の姿になっていたのだ。そんなことをしているから網にかかったのじゃないか。自業自得であると」

経信の言葉によって、狐を射たものは無罪となりました。

槻の木を切る

このように風流を愛し才能豊かな経信でしたが、どうしたわけか晩年は大宰権師として大宰府に左遷されました。その道中、筑 前莚田の駅で一泊します。

折しも八月十五夜。その旅館の庭に大きな槻の木があって月を隠していました。「目障りだな」経信は従者に命じてその木を切 り倒させ、一晩中名月に向かい合って琵琶を弾き歌を吟じました。